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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

メルニコフとファウストが思い出させてくれたもの〜原点めがけ一心不乱の燃焼

更新日:2021年1月27日


鍵盤奏者アレクサンドル・メルニコフをソロリサイタル、ヴァイオリンのイザベル・ファウストとのデュオの2度、東京都内で2週続けて聴いた。ともにギリギリのタイミングで日本に入り、2週間の待機期間を経て長期のツアーを実現した。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で2020年3月以降、日本の演奏会やオペラはほぼ日本人アーティストだけで営まれ、過去何年かの目覚ましい水準向上やグローバルスタンダード(世界標準)への接近を強く印象づけた。半面、演奏家の顔触れのバックグラウンドから広域性が脱落するとホモジニアス(均質)感が次第に強調され、日々、インターナショナルなメニューが提供されていた「コロナ以前」の鑑賞体験が走馬灯のように思い出される場面も増えていた。


1)メルニコフのリサイタル(2021年1月21日、トッパンホール)

J・S・バッハ「半音階的幻想曲とフーガBWV.903」byチェンバロ(ジャーマン・タイプ、ミートケモデル)

C・P・E・バッハ「幻想曲Wq.67」/モーツァルト「幻想曲K.475」byフォルテピアノ(ウィーン式、ワルターモデル)

シューベルト「さすらい人」幻想曲byフォルテピアノ(ウィーン式、ヨハン・ゲオルク・グレーバーのオリジナル)

スクリャービン「幻想曲作品28」/シュニトケ「即興とフーガ」byモダンピアノ(スタインウェイ)

アンコール:モーツァルト「幻想曲K.397」byフォルテピアノ(ワルターモデル)


北村朋幹が昨年、東京オペラシティ文化財団主催の「B→C」でクラヴィコード、チェンバロ、プリペアード・ピアノ、通常仕様スタインウェイの4台を弾き分け、ジョン・ケージを軸に繰り広げたリサイタルが「演奏者の存在を消し、鍵盤楽器自体を主役にする」意図だったのに対し、メルニコフには自身の鍵盤楽器へのこだわりを様々な角度から開陳するかのような趣があった。


約400席と小ぶりのトッパンホールであっても、冒頭にチェンバロを聴いた瞬間は「音量、小さい!」と感じたのも束の間、バッハがミニマムの楽器に対し、想像を絶する名人芸を仕掛けた野心をピアノ以上に生々しく感じている自分自身に驚く。息子CPEの「感情過多様式」あるいは「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)様式」がフォルテピアノを介して初めて牙をむけば、小曲でもオペラを想起させるドラマトゥルギー(作劇術)を展開するモーツァルトの才気も同じ楽器の不揃いな音たちによって一段と際立つ。一般にはベートーヴェンが楽器の進歩以上の音を書いたと認識されるなか、シューベルトも存命当時の楽器と〝死闘〟を演じていた様もピリオド楽器によって、より鮮明となる。


最後はモダンのフルコンサートグランドでロシアン・ピアニズムを堪能するカタルシス(感情を媒介とする精神の浄化)も客席に与えた。アンコールは再び、フォルテピアノのモーツァルト。K.397の他者による補筆部分を弾かず、オリジナルの部分で唐突に終えた時点でメルニコフもまた北村と同じく、「作品の背後に自分を潜らせる」名手だと感心した次第。


2)ファウストとのデュオ(2021年1月26日、王子ホール)

シューマン「ヴァイオリン・ソナタ第1番」

ヴェーベルン「ヴァイオリンとピアノのための4つの小品」

ブラームス「ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調(「クラリネット・ソナタ第2番」の作曲者自身による編曲版)

シューマン「ヴァイオリン・ソナタ第2番」

アンコール:クララ・シューマン「3つのロマンス」より「第1番」


多くの言葉を弄するのがアホらしくなるほど、素晴らしい音楽の時間だった。


最初のシューマン「第1番」の冒頭こそファウストが異様な音を出し、「何か、新しく発見した調律なのか、異版なのか?」と思ったりもしたけど、繰り返しは普通だったので、ただ外しただけだと理解した。裏を返せば、それほど激しい意気込みというか思いが、この晩の彼女を支配していた。午後にパーソナルトレーニングを受け、全身筋肉痛の心地よい疲労感で寝落ちするかと心配したものの、そんな物理的な〝まどろみ〟を超えて形而上にトランスするほどの音楽の密度があった。ソロとオブリガートの頻繁な交替も息がピッタリと合って完璧、シューマンの狂気と誠、ヴェーべルンの戦慄に潜むウィーンの陶酔、ブラームス晩年の枯淡をクラリネットとは違う味わいで究めるチャレンジ精神と音楽性のどれをとっても、最上級の室内楽のカンヴァセーションが用意されていた。


とりわけ、シューマン「第2番」の「こんなの聴いてしまって、いいのかしら?」的ヤバさを限界まで究めつつ、どこか夢幻の愉悦境へと誘う懐深さに、2人の演奏家としての「今」の充実を感じた。蓋を全開にしたピアノは当然、「伴奏」の領分には甘んじていなかった。ヨーロッパ楽壇の一線で活躍する演奏家の脇目もふらず基本に忠実、最先端の様式感で作品への再考を促す真摯な職業倫理観に久々に触れた一夜。室内楽デュオの神髄を味わった。

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