• 池田卓夫 Takuo Ikeda

ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ、メシアン…アンリ・バルダから小林美恵へ


梅雨明けの夜空をHakujuホール屋上から見た

2021年7月15日のアンリ・バルダ(ピアノ)リサイタル@紀尾井ホールと、16日の小林美恵(ヴァイオリン)らよる室内楽@Hakuju(白寿)ホールーー2つの演奏会に共通した作曲家はベルクとラヴェル。バルダはモーツァルト、ドビュッシー、フォーレに、小林たちはメシアンに、それぞれ結びつけた。18世紀のモーツァルトを除けば、1903ー1940年のわずか37年(奇しくも私の新卒採用から還暦定年までとほぼ同じスパン、すみません!)、しかも2つの世界大戦を含む期間に書かれた7作品を集中して聴いたことになる。芸術家が困難な時代と向き合い、次の世界に託した思いの詰まった傑作群の味わいは格別だった。


1)アンリ・バルダ ピアノ・リサイタル

モーツァルト「ロンド イ短調K.511」(1787)「ピアノ・ソナタ イ短調K.310」(1777)

ベルク「ピアノ・ソナタ ロ短調Op.1」(1907ー1908)

フォーレ「夜想曲第13番 ロ短調Op.119」(1921)

ドビュッシー「版画」(1903)

ラヴェル「クープランの墓」(1914ー1917)

アンコール:ショパン「即興曲第1番変 イ長調Op.29」(1837)「ワルツ第12番 ヘ短調Op.70-2」(1841)

前半は作品の調を律儀にそろえた不思議な選曲。モーツァルトのソナタはパリ時代の作品であり、それ以外で最年長のフォーレの作品はドビュッシー、ラヴェル、ベルクより後に書かれている。後半も「古き良き時代」のフランス最後の輝きに異文化のテイストが加わったドビュッシー、第1次世界大戦で戦死した友人たち、さらには良き時代自体への追悼であるラヴェルで、ただの名曲集以上の意味がある対照を描く。モーツァルトの苛立ったテンポと強音の混濁に戸惑い「調子でも悪いのか?」と思っていたら、マネージャーが舞台に現れ、「これからピアノを交換しますので、5分ほどお待ちください」とアナウンスした。間もなく同じハンブルク・スタインウェイの代替器が運び込まれ、ベルクで再開。明らかに混濁が消え、落ち着きを取り戻した演奏者ともども、テクスチュアの明晰な再現にプラスの作用をもたらした。続くフォーレ冒頭では1週間前のラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」第2楽章と同様の記憶クランチが生じ、出だしを2度やり直して戻った。以後は気合が入り、どんどんコンディションを上げ、いつしか私たちを東京の紀尾井町からパリへと連れ去った。


ガッチリとした上半身の安定と鍵盤状を自在に移動する手指の柔軟性を通じ、ピアノの金属臭が最小限に抑えられ、ごく自然な肌触りのエコロジカルな音が生き物のようにうごめく。ドビュッシー「版画」の第3曲「雨の庭」の妖しげな輝き、ラヴェル「クープランの墓」から引き出した激しいバスク人気質などは、通り一遍の読譜では絶対に現れない次元の表現といえる。フランス革命以前の宮廷音楽家、クープランの名に惑わされてはいけない。バルダが私たちを誘ったパリのサロンは王侯貴族の優雅な世界ではなく、サティやコクトー、プーランクらが出入りしたであろう裏通りの怪しげな場所、一癖二癖ある芸術家の溜まり場みたいな空間だった。大枠は正統派なのに、どこかアブナイ雰囲気が漂う素敵なピアニストだ。


2)「Hakuju New Style Live〜心が喜ぶ演結び 新しい出会いの形へ〜室内楽の極み」

小林美恵(ヴァイオリン)、横川晴児(クラリネット)、加藤文枝(チェロ)、ジャン=ミッシェル・キム(ピアノ)

ベルク「室内協奏曲」第2楽章アダージョ(ヴァイオリン、クラリネット、ピアノ編=1924)

ラヴェル「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」(1922)

メシアン「時の終わりのための四重奏曲」(1940)

4人の奏者の世代、経験、バックグラウンドが微妙に異なるチームで興味津々だったが、結果は吉と出た。NHK交響楽団往年の名首席奏者でヴェテランの横川の枯れた味わい&円熟期に入った小林のリーダーシップと溢れ出る美音をベースに、可憐な容姿からは俄に想像し難い大胆さと情熱、機知に富む加藤と、大きな手が生きる技の安定と冷静な分析力を備え、協調性にも事欠かないキムが随所で面白い刺激を与え、別次元のケミストリー(化学反応)が発生し続けた。ベルクの出だしで小林が発した「天使の響き」は、実に蠱惑的だった。


メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」は第2次世界大戦中、捕虜として送致されたナチス・ドイツ軍の収容所で書かれた作品のためか、「世の終わり…」の誤訳が長くまかり通っているが、敬虔なカトリック信者だったメシアンが新約聖書の「ヨハネ黙示録」に想を得ただけに、最終曲(第8曲)「イエスの不滅性への賛歌」では現実の時間を超え、「時」と「永遠」の結合に至るポジティヴ・シンキングに着地する。2021年7月の世界に生きる人類は国の別なく、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界拡大)がもたらした精神的〝収容所〟内の心理を共有する。今夜のメシアンの異様な生々しさは、パンデミックの現実抜きには語れないだろうし、とりわけ、第8曲の小林のソロは「コロナ禍後(ポスト・コロナ)の世界」に希望を託しつつ、どこまでも優しく、肯定的に響いた。「時の終わり…」をこれほど幸せな気分で聴き終えたのは、かなり稀有な経験のように思う。

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