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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ストラヴィンスキー、シマノフスキ、オルフの土曜日ー廻由美子とウルバンスキ


午後4時開演から午後6時開演へと問題なくハシゴ

名古屋から戻って室内オーケストラのレビューを仕上げ、夕方から2つの演奏会を聴いた。


1)「新しい耳 第29回テッセラ音楽祭」第2夜「火の鳥」(2021年11月13日午後4時、三軒茶屋サロン・テッセラ)

田中信正×廻由美子(2台ピアノ)

J・S・バッハ「2台のクラヴィーアのためのコンチェルト ハ長調BWV.1061」

廻由美子「ジョン・マクラフリンの《バーズ・オブ・ファイヤー》へのオマージュ」

ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲1919年版(A・ウォスターの2台ピアノ編曲)

ピアニストの廻由美子が2007年から年2回企画・主催する三軒茶屋の小さく、尖った音楽祭。かつてトーマス・ヘル独奏のリゲティ「エチュード」全曲を聴いたのも、この音楽祭だ。自分が中学3年生(1973年)から就職4年目(1984年)まで両親と住んでいた頃は、現代アートと無縁の「山手の下町」だった。開演前の「お約束」として老舗「大黒屋」に立ち寄り、名物「竹の子せんべい」をゲットしてから、デニーズ上にあるテッセラに入った。


「男前」のピアニスト、廻は一応(失礼!)桐朋学園大学音楽学部教授だが、共演の田中は国立音楽大学作曲学科中退。バロックから現代まで網羅する演奏活動を経てシアター・ピースへと進出、2014年からは「超弩級ユニット《田中信正トリオ作戦失敗(ベース=落合康介、ドラムズ=橋本学)》」の活動も展開している異能の才。「変人度」では廻を上回る。


「現代音楽にしては古風だな」と思ったらバッハだった、という大ボケの睡魔はマクラフリンを〝枕〟にした即興の丁々発止で完全に吹き飛んだ。何が飛び出し、どこへ展開していくのか、この2人のデュオは予断を許さない。ストラヴィンスキー「火の鳥」を編曲したのはギリシャの鬼才ピアニスト、アキレス・ウォスター(1973ー)で、2015年にショットから出版された。田中の第1ピアノは目眩く超絶技巧、廻の第2ピアノはチェーンのような小道具も内部に置き「様々な民族楽器の音が聴こえるような、妖しくも魅惑的な音色」を担う。あまりに衝撃的音像の連続、聴き終わってしばらくして「ああ、没後50年か」と気づく。


2)東京交響楽団第695回定期演奏会(11月13日午後6時、サントリーホール)

指揮=クスシュトフ・ウルバンスキ、ヴァイオリン=弓新(ゆみ・あらた)、ソプラノ=盛田麻央、カウンターテノール=弥勒忠史、バリトン=町英和、合唱=新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮)、児童合唱=東京少年少女合唱隊(長谷川久恵指揮)、コンサートマスター=水谷晃

シマノフスキ「ヴァイオリン協奏曲第1番」

オルフ「カルミナ・ブラーナ」

三軒茶屋終演が午後5時20分くらいだったので無理かと思いきや、地下鉄利用と徒歩で所要時間30分、開演10分前にサントリーホールへ入れた。東京はつくづく、便利な街だ。


1982年生まれのウルバンスキは2013年から3シーズン首席客演指揮者を務め、東響との相性はいい。同じポストを持つハンブルクのNDR(北ドイツ放送協会)エルプ・フィルハーモニー管弦楽団日本ツアー時の演奏と比べても、東響との組み合わせで独特の色というか妖気を放つのが面白い。1曲目のシマノフスキは元々得意な近代音楽、しかも自国の作品ということで恐ろしく彫り深く、切れ味鋭く、色彩豊かな音色を東響から引き出した。独奏の弓は1992年生まれと指揮者より10歳年少、チューリヒ歌劇場コンサートマスターを経て現在はライプツィヒに住み、北西ドイツ・フィルハーモニーの第2コンサートマスターを務める。ヨーロッパにじっくりと腰を据え、オーケストラの日常も併せ持つ演奏家ならではの平常心と探究心を備え、一歩ずつ静かに作品の核心へと迫る優れた独奏だった。驚嘆に値した。面白かったのは大詰めのカデンツァで、すこぶる長身のウルバンスキはソリストを引き立てようと指揮台から降りたのだが、何故か途中で振る必要のないタクトを動かし、指揮者の悲しい性(さが)?を発揮、ウケをとる場面ではないのに、苦笑してしまった。


後半は感染症対策でいつもの東響コーラス(アマチュアだが超優秀)との共演がかなわず、プロの合唱団が社会的距離を考慮した少人数で出演した。ソリスト3人も外国人の代役。さすがに大音量の管弦楽がかぶさると合唱は完全に埋もれてしまうが、静かな部分では少人数なりの利点もあった。暗譜で指揮したウルバンスキは物足りなさを補うように芝居っ気たっぷりの演出を随所に施し、ドイツ民衆劇というよりはよりモダンでエキセントリックな音楽としての再現を試みた。3人の独唱も指揮者の指示を適確に反映し、大健闘だったと思う。オーケストラは総奏、ソロとも一段と冴え、ウルバンスキとの変わらず抜群の相性を発揮した。半面、大合唱の音圧がなくなって曲の肝(きも)が見えてくると、オルフの「ドイツ的なるもの」への執着が意外とパターン化された作曲に収れん、名曲ではあってもとびきりではなく、「上出来のB級」の域にとどまる不都合な実態を白日の下に曝け出した気がする。



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