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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

シベリウスのヴァイオリン協奏曲を金川真弓、青木尚佳で聴き比べた都響→N響

更新日:2021年6月17日


同じ作品、どこか似た感触の人選の演奏会が短期に集中することは、ままある。だが3週間足らずの間に日本フィルハーモニー交響楽団、東京都交響楽団、NHK交響楽団がシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」をとりあげ、順番に辻彩奈、金川真弓、青木尚佳と旬の日本人女性ヴァイオリニストばかりソリストに立てる事態は、さすがに珍しい? さらに木島真優、小林美樹らも次々と在京オーケストラと共演するなか、三浦文彰や郷古廉、山根和仁、成田達輝ら男性ヴァイオリニストには全く〝お座敷〟がかからないのも極端な話ではある。


シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」の演奏が、本当はとてつもなく難しい真実を示唆するエピソードを2つ、紹介しよう:


往年の大ヴァイオリニスト、シモン・ゴールドベルク(1909ー1993)がアメリカ合衆国ペンシルヴェニア州フィラデルフィアのカーティス音楽院を最後に教授職を辞めた時、シベリウスの協奏曲について「教育用の練習曲としては意味のある作品だが、全く好きになれなかった」といい、スコアをビリビリと破いて捨てた。夫人でピアニストの山根=ゴールドベルク美代子が「それでも多くの書き込みがあり、日本の学生の役には立つかもしれない」と考え、ゴミ箱から破片を集めてセロテープで修復を試みたが「それすら許さないほどの気迫で粉々にされていて、諦めたのよ」と生前、私に教えてくれた。夫妻と親しかったヴァイオリニスト、前橋汀子と東京音楽コンクールの審査をご一緒した際この話を伝えると、しばらく沈黙した後、「わかる気がするわ」と漏らした。「ユダヤ人として抑圧され、長く流転の人生を余儀なくされたゴールドベルク先生にとって、北欧の重苦しい曇り空と冬の閉ざされた世界の象徴といえる音楽は堪えがたかったのでしょうね」と、前橋は説明したのだった。


②セルジュ・チェリビダッケ(1912ー1996)がミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督だった時期、シベリウスの協奏曲のソリストとして事もあろうに〝宿敵カラヤン〟の秘蔵っ子アンネ=ゾフィー・ムターが招かれた。リハーサルを重ねるごとにチェリビダッケの怒りがつのり、ついにムターを降ろして代役に当時21歳だったコンサートマスター、インゴルフ・トゥルバンを立てた。理由はカラヤンへの当てこすりでも何でもなく、ムターの解釈そのものにあった。不遇時代、北欧で指揮する機会の多かったマエストロはシベリウスの音楽に深い共感を寄せていた。だから「この小娘には何もわかっていない。あの長く暗い冬をひたすら室内で耐え、深く屈折した心理を抱えた人々の気持ちが!」と怒ったのだ。


2021年6月14日の東京都交響楽団第929回定期演奏会Aシリーズ(東京文化会館大ホール、コンサートマスター=四方恭子)は秋山和慶の指揮、金川真弓の独奏でシベリウスの「交響詩《吟遊詩人》」「ヴァイオリン協奏曲」と、プロコフィエフの「交響曲第7番《青春》」。秋山と都響の共演は少ないが、私は1983年12月5日の第186回定期演奏会Aシリーズのショスタコーヴィチ特集(高橋悠治のピアノと田宮賢二のトランペットによる「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第5番」)でのとてつもなく素晴らしく、シャープな棒さばきを今も鮮明に覚えているので、今回のプロコフィエフに寄せる期待は大きかった。都響のシベリウスといえば第2代音楽監督でフィンランド人を母に持つ渡邉曉雄との名演の数々の影に隠れた、いくつかのエピソードがある。いちばんの人気曲「交響曲第2番」の都響初のセッション録音(日本コロムビア)は渡邉ではなく後任シェフのモーシェ・アツモンが担ったなど、まともな記録の一方では、イツァーク・パールマンが協奏曲のソロを担った1980年6月21日の第126回定期演奏会で指揮者の小林研一郎と全く解釈が合わず、怒りのあまり第1楽章の間に2度も弦が切れ、最後は先日亡くなった当時のコンサートマスター小林健次の楽器を借りて何とか続行したという恐ろしい現場もあった。私は最前列の学生席で目撃した。


ベテラン(80歳)の秋山と若手の金川の関係には険悪のかけらもなく、コンチェルト指揮の達人が繰り広げる素晴らしい管弦楽の絨毯の上で息もぴったり、ドイツ演奏家財団貸与の名器ペトラス・グァルネリウスを存分に鳴らした。非常に完成度の高い演奏だったにもかかわらず、私が味わった疎外感は、ゴールドベルクやチェリビダッケがこだわった「心の襞(ひだ)の屈折」よりも、ドイツ的な構造論理の追求と構築に主眼を置いた解釈にあった。


プロコフィエフの第7番は死(1953年)の1年前に初演された最後の交響曲。「社会主義リアリズム」に振り回される中での絶望や孤独、青春への喪失感といったネガティヴな要素で語られることの多い作品だし、今回の演奏会のレビューや感想でもそうした指摘が目立つ。だが70代半ばくらいからケレン味をグッと増し「日本のストコフスキー」のような面白みの顕著に現れたマエストロ秋山が都響の優秀なアンサンブル、粒の揃った管楽器ソロの能力を極限まで引き出し、すこぶる明快かつ柔軟で色彩豊か、高い解像度で現出させた音の数々には「力強い楽しさ」が溢れていた。私は革命後にロシアを出て日本経由で米国に向かい、その後のパリ時代を経て旧ソ連に復帰した作曲家の「私の履歴書」を思った。民族色よりはジャズのエコー、フランスの洗練などを色濃く漂わせながらも、すべてがセピア色の憂鬱を帯び、過ぎ去った過去への追憶が前面に出る。もう一歩踏み込めば、スターリンやジダーノフら「ソ連共産党の田舎者」には絶対わからない洗練の極みを敢えて軽く、ジャブの連発のように書き連ねることで強烈な皮肉、冷笑を遺言としたのだと思える。「より社会主義リアリズムに相応しい明朗な終わり方」にするよう忠告されて多少の書き足しをしようとも、全く揺るがない最高水準の軽蔑は70年後の今日、ようやく1つの音楽としてストレートに鑑賞できる古典性を獲得したーーそう考えることが可能なほどに優れた指揮、管弦楽だった。


6月16日、サントリーホールのNHK交響楽団演奏会(コンサートマスター=伊藤亮太郎)は2020年1月以来の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィの復帰だった。シベリウスのヴァイリン独奏は名誉コンサートマスター堀正文の弟子で今年1月、ワレリー・ゲルギエフが音楽監督を務めるミュンヘン・フィルのコンサートマスターに就任した青木尚佳が担った。冒頭にパーヴォの母国エストニアの作曲家アルヴォ・ペルト(1935ー)の小品「スンマ」の弦楽合奏版、後半の交響曲にニールセンの「第4番《不滅》」を配した。旧ソ連に組み入れられ1991年に独立を回復したエストニアはリトアニア、ラトヴィアとともに「バルト3国」として一括されるが、地理的にはフィンランドの対岸で首都タリンまではヘルシンキから「上がって下りるだけ」の30分のフライトで着く。国歌もシベリウスの「交響詩《フィンランディア》」と同じ旋律なので実質、「北欧音楽特集」と言っていいプログラミングだった。


北欧音楽が専門の音楽学者、神部智氏の解説によると、ペルト独自の「シンプルな三和音を軸としつつ、特定のメロディ、リズムとテンポで響きを繊細に彩るティンティナブリ(鈴声)様式」に基づく「スンマ」(1977)は瞑想的に、永遠の時を刻み続けるような音楽。長い不在を経て東京の職責に復帰したパーヴォの思い、N響の未来を象徴する演奏だった。


青木のソロは真摯ひたむきで、シベリウスあるいは北国の人々の心理の深層に迫り得た。シベリウス「不毛の地」フランスで、パリ管弦楽団初の交響曲全集ライヴ録音(ソニークラシカル)を実現したパーヴォだけに、管弦楽の完成度と内面性にも抜かりがなかった。名演。ソリストのアンコールは、イザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番作品27-1」の第3楽章。ドイツで素晴らしいポストを得て、飛躍の時を迎えた青木の今を伝える逸品だった。


ニールセンの「不滅」は、今年3月9日に山田和樹も同じサントリーホールで、読売日本交響楽団との名曲コンサートで指揮した作品。2人の腕利きティンパニ奏者を必要とするが、複数の首席奏者がいて、出番ローテーションを組んでいるオーケストラが首席2人を並べることは先ずない。3月の読響の第2ティンパニはN響コンサートマスター篠崎史紀(マロ)の息子で神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席の篠崎史門。今回は読響元首席の菅原淳と、何故かN響と読響の〝クロス忖度〟みたいな雰囲気が漂う人選だった。


コロナ禍でパーヴォ不在の17か月間(日本国内の公演ベース)、N響は創立以来初めて定期演奏会を休み、有観客公演再開後も「〜月の演奏会」の名称で新しい指揮者、レアな曲目、思い切った編成に敢えて挑む姿勢を保ってきた。6月号の会員誌「フィルハーモニー」の18ページには「2020ー21シーズンを振り返って」と題した西川彰一演奏制作部長の「特別コラム」が載っているので、ご一読をお勧めする。池袋の東京芸術劇場というN響主催では未開の地、恐ろしく客入りの悪い演奏会で稀有の名演を達成したり、楽員の登場とともに拍手が起きたり、さらには笑顔で拍手に応えたり…と、かつての〝N響様のお通りだ!〟時代を知る者としては衝撃の連続だったが、同時に楽員の世代交代、新世代の演奏安定が進み、オーケストラとしての魅力が急激に増した。「かくも長き不在」を経て再会したパーヴォも、目をみはったに違いない。


ニールセンでは元々の楽曲への共感、パーヴォ自身の円熟、雌伏のはずだった時期にアンサンブルとソロ両面の進化を成し遂げたN響への驚きと賞賛が相まって、とてつもなく有機的な音楽に結晶した。弱音の透明度、うねって歌う弦楽器群が取り戻しヴァージョンアップした「ヤルヴィ時代のN響」のサウンド、久々のシェフとの出逢いに最大限のソロで応える管の首席たちの喜びなどが足し算ではなく掛け算の領域のケミストリーを発揮、オーケストラを聴く醍醐味も爆発した。首席ティンパニの植松透だけでなく、第2を担った菅原の衰えを知らない妙技にも酔った。演奏が終わり、パーヴォが優れたソロを披露した楽員を労うなか、植松は起立を促されると一礼の後に菅原のところへ駆け寄り、先輩への敬意を表した。ありそうでない光景が、楽員の達成感を象徴した。客席の反応もすこぶる熱狂的だった。


私は1992年2月、ベルリンのコンツェルトハウスでニールセンの交響曲をパーヴォの父ネーメ・ヤルヴィの指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で聴いたことがある(本拠地のフィルハーモニー・ザールが改修中で、代替会場での定期だった)。グリーグの「ピアノ協奏曲」を当時21歳のレイフ・オヴェ・アンスネスが独奏、鮮烈なドイツ・デビューを飾った現場でもあった。当時54歳のネーメは十分にマエストロの風格を漂わせ、ニールセンも名演だったが、今夜のパーヴォの演奏に横溢した「ワクワク感」はなかった。指揮者としての優劣は好みの問題もあってにわかには論じられないが、パーヴォの演奏の方がより感動的だったのだとしたら、そこには新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的拡大(パンデミック)も大きく影響しているのだろう。ダニエル・バレンボイムにも似ていて、とにかく忙しく仕事をし続けるのが生き甲斐のパーヴォがかくも長期の休養を強いられ、久しぶりの日本でもNHK本体まで巻き込んだ厳格な隔離体制下に置かれた結果、事の重大さに思い至り、本来授かった才能の最良の部分を再認識した上で、一皮むけたN響と再会できたのは、敢えて雑な物言いをすれば、コロナ禍のデメリットではなくメリットだった。それは客席にも言えることで、N響従来の「主たる顧客層」の高齢者が少なくとも1回目のワクチン接種を終えて現場に復帰しただけでなく、テレワーク普及で余暇を柔軟に設定できるようになった若年層の参入も見受けられ、コロナ〝明け〟後の希望を強く意識した。


政治もワクチンもオリンピックも別のところで、私たちが関わる日本の音楽シーンはもう、したたかに、新しい局面へと歩を進めている。

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