「音楽を通して、多くの人たちと手を携え、今までの固定観念にとらわれない新しい時代の『楽しいオーケストラ』を目指して、演奏活動を進めていくオーケストラ」として2020年4月、浮ヶ谷孝夫を音楽監督に迎えて発足した東京21世紀管弦楽団。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に出はなを挫かれ、発足演奏会はピアノのソリストをドイツ人から日本人に変更して4月から8月に延期、11月4日の第2回定期演奏会(東京芸術劇場)も日本人ヴァイオリニストの成田達輝を起用し、「オール・ブラームス・プログラム」に挑んだ。首都高速中央環状線C2山手トンネルがまさかの渋滞、芸劇コンサートホールに着席したとたん、1曲目の「悲劇的序曲」が始まった。弦は第1ヴァイオリン12人、第2ヴァイオリン10人、ヴィオラ8人、チェロ6人、コントラバス4人の12型と小ぶりの編成だが、ドイツ風のダークで温かな音色に好感を抱かせる。
指揮の浮ヶ谷は1978年にベルリン芸術大学へ留学して以来ドイツを本拠とし、2005年には首席客演指揮者を務めるブランデンブルク州立フランクフルト・アン・デア・オーデル管弦楽団と日本ツアーを行った。オーデルは旧西ドイツの国際金融都市、フランクフルト・アム・マインとは全く別の街だ。経歴には「国立」とあるが、1990年のドイツ統一以降、旧東ドイツ地域の国立歌劇場やオーケストラも旧西ドイツと同じく国から州や市に移管された。ナチス時代の強力な中央集権への反省から、第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国(西ドイツ)は教育や文化行政の地方分権を進めた。連邦直轄のオーケストラはチェコ、ハンガリーからの亡命音楽家が組織したバンベルク交響楽団、フィルハーモニア・フンガリカの2楽団しかなかったが、前者は現在バイエルン州立に替わり、後者は解散した。なぜ今も「国立」と記載するのか? 21世紀管の発足時点で問い合わせたが、確たる返答はなかった。
序曲の後は「ヴァイオリン協奏曲」。独奏者の成田を初めて聴いたのは15歳だった2007年、東京音楽コンクールの本選審査員を務めたときだった。しばらく聴いたことのなかった〝魔性〟を感じさせるヴァイオリンは非常に印象的で、第1位を喜んで差し出した。以後、定期的に聴く機会を得てきたが、ものすごく素晴らしい場面、「あれれ」と戸惑う場面の振幅が極端に大きく、私たち〝親〟世代をはらはらさせる。今夜のブラームスでは舞台上をせわしなく動き、時には1回転までしながら、スコアに潜むJ・S・バッハのエコーからロマ民族風のラプソディックな要素までを次から次へと、目まぐるしく描き出してみせる。カデンツァの没入度も高く、唸り声を上げながらの爆演。熱狂は持続せず、やけに音が薄くなる箇所がある。往年の巨匠指揮者セルジュ・チェリビダッケは「音楽の始まりは終わりを内包する」と言い続け、着地点を見据えた設計と時間配分、全体を貫くグランドテンポには寸分の抜かりもなかった。ブラームスは比較的新しいレパートリーなのか、成田の演奏はまだ部分部分のモザイクをつなぎ合わせている風情でグランドテンポを欠くから、安心して聴くことができない。浮ヶ谷の指揮は情熱的で弦も相変わらず美しいが、寄せ集めメンバーの限界か、管楽器の不揃いやソロの実力の凹凸が目立ち、興をそぐ瞬間が多々あったのは残念だ。
後半は「交響曲第4番」。今年はベートーヴェン生誕250周年のうえ、感染症対策のソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の設定)で編成の制約もあり、盛期ロマン派のブラームスの出番は少ない。今回の「オール・ブラームス」は渇を癒すのに最適の企画だし、晩年の円熟と諦念に彩られた「第4番」を秋の夜に選択したセンスも良い。浮ヶ谷の解釈の基本は協奏曲と同じながら燃焼度を高め、それぞれの楽章の終結に向かう高揚感が素晴らしい。管楽器のソロも協奏曲より気合いが入ったのか、さしたる違和感を感じなかった。半面、すべてがグイグイ、前へ前へと押されていくマッチョな力学によって消し去られたニュアンスも、少なからずあった。全員が神経を集中させ、張りつめたピアニッシモの美を現出させるまでに至らなかったのもまた、半常設の楽団が抱える課題の1つかと思える。
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