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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

「N響のすべて」引き出した井上道義、グラスとショスタコーヴィチで凄絶演奏


新聞社勤務時代、あるいは雑誌に音楽の記事を書き始めた学生時代から一貫して思ってきたのは、本当に素晴らしい演奏と出会い、最高の感動と興奮を味わってしまったときは批評も何もなく、一言、「良かった!」と記すしかない厳粛な事実だ。もちろん、そこに至るまでの状況の紹介や演奏の詳細、聴衆の反応などのオナメント(装飾)は施せるにしても。


井上道義が3年ぶりにNHK交響楽団(N響)定期演奏会に招かれ、フィリップ・グラスの「2人のティンパニストと管弦楽のための協奏的幻想曲(2000)」(独奏はN響2人の首席奏者、植松透と久保昌一)、ディミトリ・ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》(1957)」を指揮した演奏会は、完璧なまでに「良かった!」に合致するケースだった。私は2019年10月5日、NHKホールの初日の本番だけでなく、NHK文化センター主催のゲネプロ見学とレクチャーの講師を務めたので、午前11時のゲネプロ(会場総練習)開始前の解説に始まり本番終了まで10時間あまりを渋谷界隈で過ごし、井上に1日を捧げた。


実は準備段階から、この井上「一世一代の大イベント」に巻き込まれていた。前触れ原稿と会員誌「フィルハーモニー」10月号に紹介記事を書き、真夏には井上の自宅を訪れ、ショスタコーヴィチへの深い傾倒を聞き、N響ホームページ用のインタビュー原稿を仕上げた。ところが井上の思い入れは強く、何度も原稿に書き直しが入る。一時は完成を絶望視されたガウディ設計、カタルーニャ・バルセロナの「サクラダファミリア教会」の二の舞になるかと危惧したら、今度はN響HPがシステムダウンで使えなくなった。恐るべし、道義の破壊力! 結局、e-PlusのサイトにN響が軒先を借りる形で公開すると、大きな反響があった。

ここに書けなかった一言がある。「斎藤秀雄先生は72歳、渡邉曉雄先生は71歳で亡くなられた。俺は73歳になって2人の享年を追い越してしまったのだから、多分もう、あんまり長くはないよ」。2014年の4月から半年間、咽頭がんの治療で舞台を降り、生還を果たして以降の井上の音楽は急激に陰影を増した。1回ごとの本番に賭ける思い、準備、執念は凄まじく、果てしなく高い要求に対応できるのはN響や読響(読売日本交響楽団)など、財政とスケジュールにゆとりがあり、演奏水準も高いオーケストラに限られてきたかの感がある。


ホールに足を踏み入れると、ゲスト・コンサートマスターのライナー・キュッヒルが舞台前方、指揮台をはさんでシンメトリー(左右対称)に置かれたティンパニを「写メ」に収めていた。ウィーン・フィルでも滅多に見られなかった光景だったのだろう。背丈と後頭部の雰囲気が何故か井上に似てきて、角度によっては見分けがつかない。よく見ると、指揮台が円形で床面は白地だ。N響事務局に聞くと「ティンパニが白くて丸いのに、指揮台が四角くて赤じゃまずい」と井上が言い出し、特注に至ったという。グラスもショスタコーヴィチも著作権が切れていないから演奏権料も高いはずで、非常にコストのかかった公演と理解した。


井上が現れ、いつにも増してダンサー〜若いころバレエを本格的に学んだ〜のように弾力的なジェスチャーで振りだし、キュッヒルが滅多に見せない全身弾き(本番ではいつもの冷静な雰囲気が戻っていた)で弦のリード、ティンパニ2人のソロと重なった瞬間、不覚にも涙が出た。グラスを聴き、泣いたのは生まれて初めてだ。作曲は2000年と、ニューヨークの同時多発テロの1年前だが、芸術家の鋭い感性が時にもたらす悲劇の予感というか、グラス特有のミニマル・ミュージックの波動の背後に何やら、不穏な影が見え隠れする。植松と久保は通常オーケストラの最後列にいるので、ソリストとして真ん前に出る喜びを全身で現し、素晴らしいソロを披露した。本番の演奏が終わった瞬間、客席から熱狂的なブラヴォーと大きな拍手が飛んできた。高齢の定期会員が多い「A」シリーズで現代音楽をやると「棄権者」が多く、当日売りも伸びないのだが、今回は当日券売り場に長い列ができ、若い聴衆も目立って多かった。


植松は燕尾服に着替え、後半のショスタコーヴィチでは定位置から熱演を続けた。井上は「1905年」を「映画音楽のようにわかりやすい」と説明していたが、少なくとも私が「わかった」のは底知れない恐怖と哀しみ、それでも人は生きていくという逞しさだった。革命に立ち上がった人々をロシア皇帝軍が一斉に銃殺した1905年の惨事は、作曲中の1956年に起きたハンガリー動乱とも重なり、ショスタコーヴィチに「わかりやすいが深みのある傑作」を書かせた。今も香港で、大変なことが起きている。作曲家の警鐘はまだ、現役だ。


N響の弦はキュッヒルが献身的にリードする(どうやら井上に「根負け」した様子)ヴァイオリン群、客演首席の川本嘉子をはじめとするヴィオラが奏でる暖かな響き、チェロからコントラバスにかけての低弦の厚みなど、通常の定期より各パート2人ずつ増員した(これもコスト増加!)弦楽器群の厚みと透明感、弱音の集中度を兼ね備えた絨毯の上に管楽器、打楽器の水際立ったソロが乗り、高性能オーケストラ=N響の潜在能力が極限まで開花した。井上は終始、「ショスタコーヴィチは僕自身だ!」とする激しい没入を保ち、一分の隙なくスコアを再現、NHKホールの客席に衝撃的な感銘と興奮を与えた。


井上とは血のつながりはないものの、たどれば割と近い位置にいる縁戚関係のため、この「取り扱い注意」のマエストロに関わる取材を過去30年、かなりたくさん引き受けてきたが、今回ほど長期にわたって1つの演奏会と関わり、感動したのは初めてだった。終演後の楽屋を訪ね「あなたの演奏を高校生の時から聴いてきたけど、今夜が人生最高の演奏でした。おめでとうございます」と声をかけ、撮った写真が本稿のトップ画像。会心の笑みだ。

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