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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

「読売」で「巨人」を指揮したヤマカズ


山田和樹が首席客演指揮者のポストを持つ読売日本交響楽団(読響)の第224回週末マチネーシリーズに登場、2020年2月1日東京芸術劇場コンサートホールの土曜公演を聴いた。ヤマハミュージックジャパンの会員限定イベント「〜コンサートホールでオーケストラをもっと楽しむ〜読売日本交響楽団コンサート&バックステージツアー」の講師という仕事付きで午前11時から聴きどころのレクチャー、12時からゲネプロのイヤホンガイド、午後2時から本番鑑賞、4時半からバックステージツアー、5時の解散まで行動をともにした。


山田はグスタフ・マーラー→クラウス・プリングスハイム→山田一雄(先代ヤマカズ)→小林研一郎(コバケン)と師弟関係をたぐると4代でマーラーに直結する。1930年代初頭のベルリンで大規模なマーラー連続演奏会を指揮したプリングスハイムはナチスの政権掌握を受けて日本へ逃れ、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)でマーラーの紹介に情熱を傾けた。山田一雄も「交響曲第6番《悲劇的》」の日本初演で、打楽器を担当した学生の1人だった。1970年代後半から定番化に動き出した日本のオーケストラによるマーラー演奏の先導役を担ったのはコバケンの2人の恩師、山田一雄と渡邉曉雄だった。渡邉は音楽監督を務めていた東京都交響楽団(都響)と毎年12月の定期演奏会でマーラーを手がけ、デリック・クック補筆完成版の「交響曲第10番」の日本初演を実現した。山田は都響を含む様々なプロ楽団への客演に絶えずマーラーを交える一方、アマチュアの新交響楽団(新響)と交響曲の連続演奏を続けた。


とりわけ当初「交響曲第1番」の第2楽章として作曲、後にカットされた「花の章」を山田一雄は偏愛していた。1979年12月1日の新響第86回定期演奏会(東京文化会館大ホール)では「交響曲第5番」の前座、1981年5月22日の日本フィルハーモニー交響楽団第333回定期演奏会(同)ではオネゲル「交響曲第5番《3つのレ》」、ブラームス「ピアノ協奏曲第2番」(アリシア・デ・ラローチャ独奏)の序曲代わりに、それぞれ「花の章」を単独で指揮した。「ヤマカズ21」こと山田和樹は日本フィルとの全曲演奏シリーズでは「交響曲第1番」の第2楽章に取り込んだが、今回は演奏会の冒頭に「花の章」を単独で演奏、後半に現行4楽章版の「第1番」を聴かせる方式を選んだ。淡雪が消え行くように美しく儚い演奏で、客席を別世界へと誘導するのに大きな効果を発揮した。


次はハチャトゥリアンの「ヴァイオリン協奏曲」で、すでにドイッチェ・グラモフォン(DG)から同じ曲のディスクもリリースしているセルビア出身の人気者ネマニャ・ラドゥロヴィチが独奏した。楽団発足翌年の1963年2月、客演指揮に招かれた作曲者自身が東京ではレオニード・コーガン、名古屋では久保陽子の独奏で日本に伝えたという読響ゆかりの作品である。山田のリズミカル、隈取りのはっきりとした指揮に対し、ネマニャは情熱的ながらも繊細な愛情に満ちた美音で一貫した流れを造形した。土俗的な側面を少し抑えめにして近代音楽の輝き、響きの美観を重視したオーケストラともども、21世紀も20年が経過した今、この曲を改めて演奏する意義を丁寧に示すことに成功したと思う。


マーラーの「交響曲第1番」」では、山田と読響の共同作業の歯車がようやく噛み合い出したとの印象を受けた。ハチャトゥリアンに敢えて近代的な音響を与えたのに対し、マーラーでは時に弦のポルタメントも交え、ノスタルジックな感触を爆音よりも優先する姿勢に徹した。第2楽章、第3楽章の中間部に現れるボヘミア民族音楽のエコー、懐かしく心に響く部分の仕上げをゲネプロでも重視していた。20歳代終わりの青年作曲家が来るべき20世紀の音楽状況への夢を抱きながら作曲した最初の交響曲という作品の立ち位置を確認するのに、最適な演奏解釈だった。アンコールはJ・S・バッハの「アリア」(管弦楽組曲第3番から)だが、マーラー編曲版で指揮するあたり、マニアックなヤマカズ21の面目躍如!

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