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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

NNT「トスカ」と藤原「ラ・ボエーム」コロナ禍中のプッチー二再演に思うこと


オペラに興味を持ち始めた1970年代半ば。最初に惹かれた作曲家の1人がプッチーニで、マリア・カラスが題名役を歌った「トスカ」全曲盤、同じ1935年にパルマで生まれたミレッラ・フレーニ、ルチアーノ・パヴァロッティがミミ、ロドルフォで共演したヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の「ラ・ボエーム」全曲盤などを飽きることなく再生し続けた。ついに1979年9月18日のNHKホール、英国ロイヤルオペラ初来日公演初日(まだ日英両国の国歌演奏もあり、コリン・デイヴィスが格調高く振っていた)でモンセラート・カバリエ、ホセ・カレーラスによる「トスカ」で初の実演を体験、1981年のミラノ・スカラ座初来日公演のカルロス・クライバー指揮「ラ・ボエーム」(フレーニがミミ、ペテル・ドヴォルスキーがロドルフォ)の中継をNHKで観て…と凄まじい公演に触れながら熱を上げていった。


新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が蔓延する2021年の世界では、「トスカ」第1幕大詰めの「テ・デウム」や「ラ・ボエーム」第2幕のクリスマスの雑踏で大編成の合唱(児童合唱も含めて)が活躍するシーンの「密」が問題となる。飛沫の密度を薄めるためのソーシャルディスタンシング(社会的距離の設定)は当然、「コロナ以前」に制作された演出の再演にも大きな制約を与える。2021年1月に新国立劇場が再演したアントネッロ・マダウ=ディアツ演出は2001年、藤原歌劇団が再演した岩田達宗演出の「ラ・ボエーム」は2007年のそれぞれ初演。前者は合唱団の人数を40人に絞って「テ・デウム」の場面の視覚に手を入れ、後者は大半の場面で歌手がフェイスシールドを着用、児童合唱を舞台からおろした。とりわけ藤原のソリストたちは歌いにくそうで個々のコンディションの良し悪し以上のハンディを負わされたが、音楽界挙げてのクリーンルームにおける飛沫測定試験の結果、シールド類の感染対策に疑義が呈された後の現在、あまり意味のない努力にも思えて、気の毒だ。


むしろ問題というか深刻なのは、私たち聴く&観る側の心理なのかもしれない。困難な状況下に上演を実現してくれたばかりか、新国立劇場では外国からのゲスト歌手も予定通り来演したので、客席の感謝は確かに大きい。揃って視覚の「こだわり」がありつつも人をあまり動かさず、基本〝歌合戦〟形態の演出は自分の好みとは異なるし、「トスカ」初演時は新聞批評で厳しく論じもしたが、今回いずれも再演であり、改めて評価することは控えておく。


先ずは「トスカ」でカヴァラドッシを歌ったイタリアのテノール、フランチェスコ・メーリに関して、ネット上の絶賛の嵐が自分には理解できない。私が聴いた28日公演のコンディションは絶好調といえず、何箇所か〝抜いて〟かわしていたこともあるのか、とにかく音色が1つしかなく、しかも強い個性を欠くから声だけで音楽を語る水準には到達せず、かつて接したカレーラスや、ルチアーノ・パヴァロッティらの声を懐かしんでいる自分ーー決して懐古主義者ではない!ーーにむしろ驚いた。マリオ・デル・モナコやフランコ・コレッリ、カルロ・ベルゴンツィらの全盛期を聴いた世代なら、さらに厳しいのだろうと想像もした。


題名役のキアーラ・イゾットンは良いソプラノだが、急激に重たいレパートリーへと移行したためか、発声の腰が定まらずにヴィブラート過多。アリア「歌に生き、愛に生き」の途中でピアニッシモの行き過ぎが止まらずに声がかすれ、管弦楽だけしか聴こえない部分があったのは残念だった。スカルピアのダリオ・ソラーリは珍しくプログラム掲載の顔写真より実物の方が見栄え良く美声の半面、役柄に反して好青年ぶりが際立ってしまうのは明らかに演技力の不足だし、いわゆる喉声(イタリア語のインゴラート、ドイツ語のクネーデル・シュティンメ)で音が上の席まで飛んでいかない。むしろ感心したのは堂守役のベテラン、志村文彦の安定した美声と適確な演技だった。せっかくのナショナルシアター(国立劇場)で研修所も併設して久しいのだから、主役3人の枠に最低1人くらい日本人の実力者がいても悪くはないと思う。今回の再演の最高殊勲賞は管弦楽で、ダニエーレ・カッレガーリの指揮する東京交響楽団が現出させた豊麗な音色と立体感、細部まで克明な響きは聴きものだった。


「ラ・ボエーム」はミミの尾形志織が藤原の主役デビューを果たし、藤田卓也がロドルフォを務めた2日目、1月31日の上演を東京文化会館大ホールで観た。同ホールにとっては昨年2月の東京二期会「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」(ヴェルディ)以来、11か月ぶりのオペラ公演に当たる。来日できなくなったイタリア人指揮者に代わり、鈴木恵里奈が東京フィルハーモニー交響楽団を指揮した。幕開けは「不安」の2文字が全体を覆い、鈴木は歌手の不安心理を支えきれず、自分から引っ張って行くこともないので音楽が弾まず、ただただ沈んでいく。藤田は低めに音を取りながら慎重に入ろうとするが高音がうまく決まらず明らかにベストコンディションではない。尾形も大役へのプレッシャーかフレーズが定まらない。出会いの場面の「冷たい手」「私の名はミミ」の2大アリアはともに不発。第2幕も子どもたちの醸し出すクリスマスの賑わいがないまま、かなり沈鬱な展開だ。救いはマルチェッロの上江隼人、ショナールの市川宥一郎、ムゼッタの中井奈穂ら準主役チームの安定感だった。


だが、オペラをはじめとするパフォーミングアーツとはつくづく不思議な現象であり、ナマモノである。第3幕に入ると鈴木の女性指揮者ならではの(←ジェンダー的観点からは不適切な表現だと承知の上で、あえて)細やかさとオーケストラ、歌唱が噛み合い、ミミとロドルフォ、ムゼッタとマルチェッロの二重唱、三重唱&四重唱が実にしっとりと、深い感動とともに広がった。今まで感じたことのないタイプの味わいといえる。この感触は第4幕まで保たれ、次第にアンサンブルの精度と感情の振幅を上げながら感動の大団円を迎えた。尾形も第3幕以降は急速に安定度を高め、硬質の輝きを備え、プリマドンナにふさわしい声の魅力を十分に印象づけることができた。藤田は依然コントロールに苦心しながらも長年の経験を生かし、ドラマの骨格を支えた。かなり危なっかしいところが多いのは確かだが、貧しくも美しく、甘くも残酷な青春群像を扱った作品の世界に立ち帰れば「これもあり」と納得させる、不思議な上演だ。磨けばさらに光り、世界に通用するはずの原石の宝庫でもあった。


最後に余談。客席の飛沫対策で「ブラヴォー」などの掛け声が依然〝自粛〟なのは仕方ないとして、それを要請するアナウンスに妙なバラつきがあるのは気になる。藤原や各オーケストラが「お控えください」「ご遠慮ください」なのに対し、新国立劇場だけは「お断りします」。断られてもねえ…。何もそこまで頑なに拒まなくてもいいのに、と思ってしまった。

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