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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

N響→名フィル→都響「第九」行脚の旅

更新日:2019年5月13日


昨年までの毎年12月は洪水のようにあふれる「第九」(ベートーヴェンの「交響曲第9番《合唱付》」)演奏会を敬遠し、「厳選した1公演」だけを聴くにとどめていた。晴れて自由の身となった今年(2018年)は数を一気に増やし、「クリスマス3連投」を計画した。12月24日にマレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団(NHKホール)、25日に鈴木秀美指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団(愛知県芸術劇場コンサートホール)、26日に小泉和裕指揮東京都交響楽団(サントリーホール)。もちろん、それぞれの個性は異なるが、時代のトレンドといえる底流の共通項もみえてきて、面白い体験だった。


ヤノフスキ&N響は15時06分開始、16時14分終了、実質65分あまりの快速演奏。グイグイ進め、自然に熱を帯びていく。音色はささくれだったドイツ風ながら、響きの清澄さを重視する。プログラム掲載のインタビューでマエストロ自身が指摘する「最美の箇所」、第3楽章の21小節目は本当に美しく奏でられたが、クライマックスのファンファーレを短く切るなどでピリオド(作曲当時の仕様)志向は崩さず、ハードボイルドなヤノフスキ流を厳守する。最終楽章の合唱、「神の御前で(vor Gott)」のフェルマータも最短で終える。歌詞を明瞭に伝える意思は強固で、ふだん埋もれがちなテノール独唱の終結部をきちんと響かせようと、本来は大きく盛り上がる合唱にスビトピアノ(急激な音量の減衰)をかけた処理は賛否両論だろうが、現場主義の真骨頂をみる思いがした。東京オペラシンガーズ(田中祐子指揮)は早いテンポ、細かい指示によくついていった。独唱はロバート・ディーン・スミス(テノール)、アルベルト・ドーメン(バリトン)の外来ワーグナー歌手2人と藤谷佳奈枝(ソプラノ)、加納悦子(メゾソプラノ)の日本人女声2人の混成。バランスは危惧したほど悪くなかったが、音色や作品に対する考え方の違いは否めず、やや居心地が悪かった。


鈴木秀美&名フィルは18時54分開始、20時終了、実質65分はヤノフスキ&N響とほぼ同じだが、受けた印象はかなり違う。弦は対向配置で基本ノンヴィブラート、ティンパニも小型で鋭いピリオド路線の楽器だった。鈴木は終演後、「僕はベートーヴェンさんの書いたそのまま、やっているだけです」と語っていたが、権威主義とは無縁、楽員の自発性を尊重しながら全員が心を1つに合わせ、作品にすべてを語らせる姿勢に徹していた。最初は「薄味で物足りない」と思いかけたが、丁寧に時間をかけて音楽を温め、第3楽章でヤノフスキと同じく最美のカンタービレに結晶させた手腕はどうしてどうして、深い見識に裏打ちされたものであった。意外なことに、ファンファーレはヤノフスキほどピリオド調ではなかった。合唱は例年と同じくアマチュアの愛知県合唱連盟で、いつもと異なる方法論やテンポ設定にどこまで対応できるか心配だったが、鈴木の綿密な指導を得て、見事に新しい魅力を発揮していたのは立派だった。独唱の中江早希(ソプラノ)、布施奈緒子(メゾソプラノ)、中嶋克彦(テノール)、押見春喜(バスバリトン)も鈴木との共演歴が長く、様式のズレがない。私は鈴木と山形響、神奈川フィル、東京シティ・フィルなど各地のモダン(現代楽器)オーケストラとの共演を折に触れ、聴きに出かけてきたが、どのオーケストラも彼の方法論を素直に受け入れ、極めて新鮮に音楽を語るのが印象的。日本楽壇の隠れた宝かもしれない。


小泉&都響は19時7分開始、20時12分終了、やはり65分だったので、これが現代の標準的演奏時間ということになるのだろうか? 演奏は予想通り、モダンオケの機能を最大限に生かし、ドカーンと大音量のマッチョな音楽を満喫させてくれる。音楽監督の大野和士や首席客演指揮者のアラン・ギルバートが振る時よりも弦の音色がメタリックで、小泉のメンター(支援者)だったカラヤンの影響を今なお感じさせる一徹ぶりが、それなりのファン層を楽員、聴衆の双方に抱えている実態もよく理解できた。ヴィブラートやリズムにおいて、現代の解釈としての様式を巧みに保っていることに関してはソロ・コンサートマスター、矢部達哉の貢献が大きいと思える。都響のアンサンブルも美しく、特に木管のソロが素晴らしい。第3楽章のファンファーレをファンファーレらしく決め、第4楽章の「vor Gott」のフェルマータは今回聴いた3公演の中で最も長い。安井陽子(ソプラノ)、富岡明子(メゾソプラノ)、福井敬(テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)、二期会合唱団(増田宏昭指揮)とオール二期会の声楽チームも理想的なバランスを示し、火の玉コーダで会場は沸きに沸いた。オーケストラは年に1度「《第九》しか聴かない」という人もいるし、デートがてらの若いカップルもそれなりに来ていて、いつもの定期公演とは全く客層を前にしての特別演奏会では、こうした「わかりやすい」演奏で真っ正面から攻めるのも、1つの選択肢と実感した。



3公演を聴き終え、それなりの手応えを得たし、「歳末の餅代稼ぎ」と揶揄されても手を抜かずに全力で演奏したソリスト、楽員、合唱団員にも最大限の敬意を表するが、それでも、不思議な欠落感が残っている。どの演奏も、第1楽章の切実感、霊感が足りないのである。いまさらヴィルヘルム・フルトヴェングラーの戦時中、もしくは戦後のバイロイト音楽祭再開記念の「第九」の極限の緊張を引き合いに出すのは無理難題としても、学生時代に日本のオーケストラで聴いた朝比奈隆や渡邉暁雄、クルト・マズア、ヘルベルト・ケーゲルらによる第1楽章にはもっと深遠な世界からの呼びかけ、形而上の響きがあったような気がする。

テクニカルな部分の水準向上は目覚ましくても、何かを置き忘れてしまったのではないかとも考えた。ちょうどそこに、今年最後の新譜として極端に対照的な「第九」2点が届いた。


モダン楽器を基本としたピリオドアプローチの最新回答である、ジョヴァンニ・アントニーニ指揮バーゼル室内管弦楽団とポーランドのNFN(国立音楽フォーラム)合唱団のソニー盤(2017年9月5〜7日録音)は演奏時間65分と、比較には最高のアイテム。もう1点は演奏時間75分と壮大な朝比奈隆指揮新日本フィルハーモニー交響楽団と栗友会合唱団のフォンテック盤(1998年6月4日録音)。両方を繰り返し聴いて思い知ったのは、「やるなら徹底的にやれ!」の一点に尽きる。もともと不器用・無骨な指揮者だった朝比奈は当時90歳。多少の振り間違いはあっても音楽の骨格は微動だにせず、人格や思想の体現としてのベートーヴェン解釈には有無を言わせない説得力がある。「第九」だけで20種類は録音したというマエストロ最後の到達点が、見事に記された録音といえる。一方、今年9月に読売日響へ客演指揮した際のベートーヴェン(ヴィクトリア・ムローヴァ独奏の「ヴァイオリン協奏曲」と「交響曲第2番」)でセンセーションを巻き起こしたアントニーニはここでも精彩に富み、引き締まった響きで作曲家の斬新なアイデアをことごとく、現代の驚きへと変換していく。声楽の扱いにも習熟していて、音楽の大きな有機的結合体を現出させる。日本の「第九」演奏の今後を考える上でも、興味深い2点である。







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