
発足60周年を迎えた日本オペラ協会が新しい(第2代)総監督、郡愛子の実質初プロデュース作として三木稔作曲、なかにし礼台本のオペラ「静と義経」を2019年3月2&3日、新宿文化センターで上演した。1993年、鎌倉芸術館(神奈川県)の開場記念で委嘱され、郡もメゾソプラノ歌手として静の母「磯の禅師」役を歌った世界初演は3日間完売の成功を収めたが、その後の日本経済を取り巻く環境の変化、優れた歌手を大勢必要とするグランドオペラのサイズなど、さまざまな問題から再演が見送られ、今回が何と東京初演に当たる。
なかにしは作詞家、小説家だけでなく、オペラ演出の分野でも実績を積んだだけに、すべての日本語が美しく洗練されていて、わかりやすい。日本オペラ協会の創立者で前総監督の大賀寛が長年究めた日本語歌唱の薫陶を受けた歌手たちも、なかにしの言葉を明瞭に歌う能力に秀でている。身も蓋もない言い方をすれば、字幕を頼らずに日本語のオペラを聴けた稀有のケースだった。ヒーローと同時に夢想家である義経の脆いキャラクター、それを利用し切り捨てた兄・頼朝の権力者としての孤独と苦悩、その妻・政子の不気味な高笑い、静の一途な愛と母・磯の禅師の慈悲、弁慶をはじめとする家来の義経への思い…と、役柄の描き分けも明快。アリアだけでなく、それぞれの人間関係を音楽で示す重唱も随所に取り入れられ、グランドオペラの定石を徹底して踏襲する。三木の管弦楽は邦楽器を多用する手法が時代を感じさせるが、ちょっと聴きには「劇伴」と錯覚する謙虚さを保ちつつ、「ここぞ」という場面で禁を解き放ち、ドラマを雄弁に盛り上げる。歌唱の装飾音には邦楽の痕跡を与え「オペラは詳しくないが、歌舞伎はそれなりに観てきた」といった観客層への橋渡しもする。
田中祐子の指揮は東京フィルハーモニー交響楽団の手綱をぐっと引き締め、歌手たちを積極的にリードしつつ、歌の呼吸をわきまえた優れたもの。相当のオペラ好きなので、今後の活躍が楽しみだ。馬場紀雄の演出は「できるだけ台本に忠実にと心がけた」と自ら明かすように、復活上演の意義を適確に理解、シンプルで日本的な舞台を造形した。背後に現れる日輪あるいは仏像の後頭部を思わせるオブジェの変化も効果的だった。静が若宮大宮の頼朝の眼前で義経への思慕を舞う場面の構図は、「蜷川マクベス」ではないが、私には巨大な仏壇と思えた。日本オペラ協会合唱団は音楽面だけでなく、演技面でも非常に能動的だった。
3日の公演を観たなかで、最も印象に残った歌手は義経の中鉢聡。人気絶頂のときに病を得て、一時は大きく調子を崩したが、昨年の日本オペラ協会「夕鶴」の与ひょう役あたりから完全に復調というより、全く次元を異にする芸術家の域へと到達したように思う。全身全霊をこめて役になりきり、巨大なパトスを築く。対する静、沢崎恵美も日本語オペラでの豊富な蓄積をフルに発揮し、義経の後を追って自刃する場面の大アリアでエロス&タナトスの頂点を築いた。頼朝の清水良一、弁慶の豊嶋祐壹も役柄を深く表現。さらに佐藤忠信の和下田大典、磯の禅師の上田由紀子のフレッシュな声が耳に残った。
大詰めの静のアリアで感情を一気に高め、死後の世界で再会した静と義経のヴァーチャルな愛の二重唱でカタルシスを得た客席からは、幕が降りだしたとたん大きな拍手が巻き起こった。カーテンコールでなかにしは三木の遺影を掲げ、客席に黒柳徹子がいることを告げ、トットちゃんは起立一礼した。いずれも普段のオペラ公演ではなかなか見られない光景だが、新宿文化センターがまた、そうしたアクションを素直に受け入れる「磁場」を備えていて、気にならない。むしろ「しめた!」と感じた。「オペラだってエンターテインメントなんだから、とことん楽しんでもらわなければ」と公言する郡総監督の次の試みは、漫画家の美内すずえに代表作「ガラスの仮面」を下敷きにした台本を書き下ろしてもらい、映画音楽で実績のある寺嶋民哉に作曲を依頼した新作オペラ「紅天女」で、2020年1月に初演する予定。
全くの偶然とは思うが、こんにゃく座の「遠野物語」に始まり、新国立劇場の「紫苑物語」、東京二期会の「金閣寺」、日本オペラ協会の「静と義経」と、今年2〜3月の東京は日本人作曲家のオペラ上演が続いた。しかも、新作初演と旧作再演が2つずつ。年代も微妙に分散していて、日本人作曲家のオペラ創作史の一端を俯瞰できたのは大きな収穫だった。
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