• 池田卓夫 Takuo Ikeda

2021読響「第2回ヴァイグレ祭」終了〜2度の滞在期間延長で一体感を増した


今回の滞日中、終演後の「お立ち台」が頻発した。

読売日本交響楽団第10代常任指揮者、セバスティアン・ヴァイグレは2021年6月の滞日期間中に名曲コンサート2つ、定期演奏会1つの3プログラムを振る予定だったが、7月最初の客演指揮者の来日キャンセルに伴い、さらに名曲1つを引き受けた。昨年末にベートーヴェンの「第九」交響曲を指揮するために来日したまま年を越し、今年1月の定期や名曲を指揮した際も、読響がピットに入った東京二期会オペラ公演「タンホイザー」(ワーグナー)の代役指揮を引き受け、2月末まで滞在を延長した。コロナ禍で音楽総監督(GMD)を務めるドイツの本拠地、フランクフルト歌劇場の公演が激減した上、ウィーン国立歌劇場やニューヨーク・メトロポリタン歌劇場などへの客演も軒並みキャンセルされたため、東京到着後2週間の待機隔離に対応できたのが読響には幸いした。前回が足かけ4か月、今回が2か月の長い共同作業を私は勝手に「ヴァイグレ祭」と命名し、今回を「第2回」と位置付けた。


私が聴いたのは、次の4公演:

1)第2回川崎マチネーシリーズ(2021年6月14日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

ヴェルディ「歌劇《運命の力》序曲」

メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」独奏=アラベラ・美歩・シュタインバッハー

ソリスト・アンコール:J・S・バッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番」第3楽章 ブラームス「交響曲第1番」

コンサートマスター=林悠介

2)第237回土曜マチネーシリーズ(6月19日、東京芸術劇場コンサートホール)

ワーグナー「歌劇《タンホイザー》序曲」

シューマン「ピアノ協奏曲」独奏=反田恭平

ソリスト・アンコール:シューマン(リスト編)「献呈」

チャイコフスキー「交響曲第5番」

コンサートマスター=小森谷巧

3)第609回定期演奏会(6月29日、サントリーホール)

グルック(ワーグナー編)「歌劇《オーリードのイフィジェニー》序曲」

フランツ・シュミット「歌劇《ノートルダム》〜間奏曲と謝肉祭の音楽」「交響曲第4番」

コンサートマスター=長原幸太

4)第238回日曜マチネーシリーズ(7月11日、東京芸術劇場コンサートホール)

ロッシーニ「歌劇《セビリアの理髪師》序曲」

藤倉大「箏協奏曲」独奏=LEO(今野玲央)

ブラームス「交響曲第2番」

特別客演コンサートマスター=日下紗矢子


すべてがオペラの序曲で始まるのはGMDのキャリアを反映した「名刺」。6月定期も当初は《ノートルダム》ではなくウィーン・フィルの首席2人=ダニエル・オッテンザマー(クラリネット)、ソフィー・デルヴォー(ファゴット)を迎えたR・シュトラウスの「二重小協奏曲」のはずだったから、前半のメインはオペラ指揮者の伴奏能力を生かした〝合わせ物〟だ。後半の交響曲は1876年のブラームス「第1」から1934年のフランツ・シュミット「第4」まで60年足らずの期間に書かれた4曲を並べ、ロマン派〜近代への強い嗜好を示した。中でもシュミットはヴァイグレ、読響の双方にとって〝初物〟のレパートリーだった。


年末年始の「第1回ヴァイグレ祭」との比較で際立つのは指揮棒(タクト)を持つ持たないの別なく、全身を駆使したボディランゲージ(身体言語)の比重を高め、細かな帳尻合わせの先にあるエモーションの大胆な表出をメンバー1人1人に強く求める姿勢である。ブラームスの交響曲2曲は、奇しくもチョン・ミョンフン指揮東京フィルの7月定期と重なった。東フィルとの長い付き合いを慈しむかのような風情のミョンフン、激しい感情表出を積み重ね、オペラに匹敵する巨大ドラマ(ブラームスはオペラを1曲も書かなかった)の結末へと持ち込むセバスティアンのアプローチ、聴き手が受ける肌触りはまるで違う。特に「第2番」は第2楽章で木管から饒舌なソロを引き出したり、第4楽章でアンサンブルの限界に挑むような加速を試みたり…と、ヴァイグレが読響を信頼すればこその逸脱が好ましかった。チャイコフスキーの「第5」も同様の行き方で、「歌劇《エフゲニ・オネーギン》を愛してやまず、歌劇場では《白鳥の湖》などのバレエ音楽も数多く指揮してきた」という蓄積が、歌謡性とドラマトゥルギー(作劇術)のスケールを広げ、客席を陶酔と熱狂に導いていた。


シュミットはウィーンでチェロ演奏、指揮、作曲など多方面に活躍、ウィーン国立音楽大学の前身に当たる音楽院の学長も務めた重鎮だったが、作曲家としては折り合いの悪かった先輩マーラー、同年生まれのシェーンベルクの影に隠れ、次第に忘れられていった。近年、ニコラウス・アーノンクールやフランツ・ヴェルザー=メストらオーストリアの指揮者が再評価の先頭に立ち、パーヴォ・ヤルヴィもhr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)と交響曲全集をドイッチェ・グラモフォン(DG)に録音するなど、演奏機会が急増している。


「交響曲第4番」は出産のショックで亡くなった実娘へのレクイエムとして作曲、絶望と夢が交錯する実質4楽章構成だが切れ目なく演奏され、冒頭と最後の長大なトランペットソロ(首席奏者の辻本憲一が好演)が「輪」を結ぶ。今日の耳で聴くと、保守的どころか十分に近代管弦楽の輝きに満ち、複雑系の感情と美を満載した名作である。ヴァイグレはワーグナー、R・シュトラウス、コルンゴルトなどの歌劇、管弦楽曲を数多く指揮&録音。ブラームスに酷評されたりして精神に変調をきたし、夭折したハンス・ロットの「交響曲」の復権にも貢献するなど、後期ロマン派の作品に最も強いアフィニティ(親和度)を示してきたが、「何故かシュミットの4番を指揮する機会は今までになく、読響が初めて」と打ち明けた。


すでに歌劇《ノートルダム》からの管弦楽曲でボディランゲージの激しさが際立っていたが、交響曲は2019年4月の就任から3シーズン目に入った常任指揮者と楽員、一丸になった挑戦が緊張感の高い響きに結晶した。ブラームスでも少し気になった、意余っての暴走や破綻、熱量過剰はよほどの致命傷に至らない限り、大胆にリスクをとった裏返しだから全然、気にならない。終演後は再び「お立ち台」状態。帰り際、ヴァイグレの楽屋に立ち寄ると「全員が初めて演奏したなんて、信じられないよ」と、缶ビール片手に上機嫌だった。


協奏曲の中では断然、藤倉大の新作が注目された。独奏者LEOの委嘱で書かれた新作は今年4月30日、サントリーホールでクリエイティヴ・パートナーの鈴木優人が指揮する読響演奏会で世界初演されたが、コロナ禍で無観客公演の映像収録を余儀なくされた。同じ読響と有観客初演する際の指揮が、オペラハウス育ちのドイツ人マエストロというのも偶然の展開。藤倉は東京芸術劇場で毎年、同時代音楽のフェスティバル「ボンクリ」(Born Creative)をプロデュースしているため、ホールの音響スタッフは藤倉作品の音像を熟知したPA(音響補助)を箏にも設定、オーケストラと絶妙のバランスを整えた。もともとLEOのためのソロ曲「竜」がベースなので、箏は出ずっぱりの超絶技巧。LEOの妙技に惹き込まれるうち、私には、箏が次第にガンダムみたいな3D(立体)のフィギュアとして立ち上がり、オーケストラがサウンドスケープとして描く地球上複数の地点に現れては消えるヴィジュアルが見えてきた。箏は最後、フルート2人(ともに女性で繊細かつ忍耐強い)が奏でる「風」と溶け合い、無の世界へ回帰する。ヴァイグレのボディランゲージ、藤倉作品にブラームス以上の有効性を発揮し、千変万化する音楽の像を適確にとらえながらソロにピタリと付けていく。終演後、LEOに感想を聴いた。「さすがオペラのマエストロ、僕の音楽のブレスを瞬間に察知して、隙なく合わせてくださるのが素晴らしかったです」と、清々しい表情で語った。


ロマン派協奏曲2作では断然、反田のシューマン。演奏会で弾くのは初めてといい、イタリア製グランドピアノFAZIOLI(ファツィオリ)を持ち込んで万全を期した。レコード会社のマネジメントを離れ自身の事務所を設立、スポンサー企業と共同で会社組織のオーケストラを奈良市で立ち上げるなど、ここ数年の反田は日本の音楽界に新風を送ろうと奮闘する。デビュー当時の「暴走ピアニスト」のイメージは虚像に過ぎず、次第に共演者に深く耳を傾けながら思慮深く、先入観にとらわれない音楽を瞬間瞬間で造形する本質が顕在化してきたと思う。ファツィオリの華麗な音色は両刃の剣で、かつて他のピアニストで聴いたブラームスの協奏曲にミスマッチを痛感したこともあれば、声楽コンクールの審査で伴奏ピアノとしてのオーケストラ的色彩感に感心したこともある。シューマンは「歌の作曲家」でもあり、ファツィオリの使用は吉と出た。反田は弾き飛ばしたりせず、シューマンの歌心を解きほぐすように、じっくりと彫り込んでいく。とりわけ、第2楽章から第3楽章への経過部でみせた丁寧な逡巡の表情に、目下の進境がよく現れていた。協奏曲と「献呈」の組み合わせは今年4月の河村尚子(沼尻竜典指揮日本フィルとの共演)と同じだが、表現の方向は全く違っていて、多様性を許容するキャパシティの大きさもまた、名曲の条件と確認した。シュタインバッハーのメンデルスゾーンは残念ながら、端正で誠実な演奏以上の印象を残さなかった。



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