目標までに現れるハードルが高く、数も多いほど期待値は上がり、達成後の満足度が増したという経験はないだろうか? 2021年3月13日、東京都の多摩地域北部に位置する人口約8万4千人のベッドタウン、東大和市の市民会館ハミングホールの20周年記念公演。レナード・バーンスタイン作曲(リリアン・ヘルマン脚本、リチャード・ウィルバー他作詞)の音楽劇「キャンディード」(1956)の全曲上演を観るまでの道のりには、まさに、そのような感じのドラマがあった。
1)首都圏で久々の上演(ジョン・ケアード演出の2010年以来?)で演出、指揮、キャストとも旬の人材が集まったにもかかわらず広報宣伝が行き渡らず、私の場合、オールドレディ役メゾソプラノの成田伊美のFacebookで知り、彼女からチケットを購入した。少なくとも、音楽ジャーナリストや評論家に宛てたプレスリリースの告知などは、なかったと思う。
2)本番当日の首都圏は雷雨その他大荒れの天気。各地で道路が冠水したり、電車が止まったりした。東大和市駅からホールまでの徒歩8分も激しい風雨で、ズボンがびしょ濡れに。
3)東大和市駅のある西武拝島線とつながる西武新宿線の下落合駅で人身事故があり、開演2時間前に運転が止まった。何とか再開後の各駅停車を乗り継ぎ、ホールも開演を10分遅らせたのでギリギリに到着した。東京21世紀管弦楽団のヴィオラ奏者1人も被害に遭う。
4)駅からホールは一本道ながら、途中で大通りが2つに分かれ、たいがいの人は商店が連なり西武や都営の路線バスが通る左側へ進むが、ホールはコミュニティバスしか行かない右側の先にある。何年か前、福間洸太朗ピアノ・リサイタルに出かけた時と同じ間違いを今日もおかした。たった1個、「ハミングホールこちら」の矢印看板を立てれば済む話なのに。
今日は以上4つのハードルをすべてクリアし、間に合った感動とともに開演を迎えた。プロダクションは田尾下哲演出の「ほぼ」演奏会形式で、歌唱は厳格さ(と、がめつさ)で名高いバーンスタイン遺産管理財団の意向で原語(英語)だ。座席数約700の市民会館大ホールのS席7千円を割高と思う人がいたかもしれないが、財団の設定した著作権料とオリジナルのスケールを維持するためにかかった費用を思うと、かなりの大番振舞に違いない。さすがに日本語対訳の字幕を出すまでのゆとりはなかった代わり、劇作家・演出家で翻訳や訳詞も手がける保科由里子が日本語のナレーション台本を書き下ろし、物語の原作者ヴォルテールに扮した人気声優の石川界人が朗読する形で観客の理解を助けた。明らかに石川のファンとおぼしき若い女性客が多く、「キャンディード」自体のプロモーション効果も発揮した。
オーケストラは昨年旗揚げしたばかりの東京21世紀管弦楽団。指揮の横山奏は2018年の東京国際音楽コンクール「指揮」で第2位(1位は沖澤のどか、3位は熊倉優)を得て以来、折に触れて聴いてきたが、明快で安定し、管弦楽を適確に鳴らせるバトンテクニックの即戦力ぶりばかりが目立ち、音楽性や解釈の奥行きには今ひとつ不明な部分が私には多かった。ところが「キャンディード」では、あの有名な序曲からして今までの横山とは全く異なり、肩の力が抜けた柔軟なアプローチで内に秘めてきた(としか思えない)歌心を全開にした。歌が始まり、ナレーションと音楽が頻繁に交替、時にかぶる場面でも自由自在につける。やや淡彩で暖色系の音づくりを通じ、バーンスタインのヒューマンな感触、人懐っこい音楽が自作自演以上に自然な息遣いで立ち上り、現代の日本人にも訴えるメッセージを発信した。
キャストは素晴らしくフレッシュで、演奏能力も際立っていた。キャンディードの大田翔は東京藝術大学音楽学部の大学院修了後、徐々にミュージカルへシフトしてきたが、基本は美声のテノール。バングロス役のバリトン田中俊太郎とヴォーカル・デュオSiriusを組み、日本コロムビアから2点のCDをリリースしている。2人とも急速に輝きを増しつつある。クネコンデのソプラノ鈴木玲奈も第86回日本音楽コンクール第1位の実力者で、同じく日本コロムビアからデビュー盤を出した。最も有名なアリア「煌びやかに、華やかに(Glitter and Be Gay)」も豊かな感情表現、確かなコロラトゥーラのテクニックで見事に決めた。
これまでクリスタ・ルートヴィヒ、アニア・シリア、郡愛子ら熟年のアルトかメゾソプラノが担ってきたオールドレディの役がまだ若いメゾソプラノの成田伊美というのは、一種の賭けだったかもしれないが、演奏会形式の制約を逆手にとり、美声の魅力で存在感を示した。マキシミリアンだけでなく1人何役もこなさなければならなかったバリトン、今井学も堅実だ。ソプラノ、アルト、テノール、バス各2人の合唱チーム「アンサンブルハミング」は積極的な演奏姿勢だけでなく、小さな役もこなし、1人1人が個性を発揮した。そして、石川ヴォルテールのナレーションの素晴らしさ! 見た目は今風の男の子だが、かなり強烈なプロ根性の持ち主と思われ、声だけで勝負する役者の高い能力と光沢のある美声をフルに生かして様々なキャラクターを巧みに描き分け、狂言回し以上の貢献度を発揮した。
で、いったい田尾下は何をしたのか? 演奏会形式上演に図形としての美しい位置を与え、照明を工夫し、オペラからミュージカル、アニメへと広がる豊かな人脈の中から最適の人材を集め、リモート形式の原語指導のプログラムを綿密に組み、保科に面白い翻訳・上演台本を書かせた……。縁の下の力持ちを装った、したたかな演出家である。
著作権問題をはじめとするハードルの高さゆえ、上演頻度の少ない20世紀の名作を東京都内とはいえ、音楽文化の中心地でもない地方都市がこれほどの高水準で再現した! 帰りの足取りは驚くほど軽く、バーンスタインの音楽に浸り切れた満足感に包まれていた。
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