鈴木雅明が音楽監督と指揮者を務めるバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)が2019年1月24日、東京オペラシティコンサートホールでベートーヴェンの「交響曲第9番《合唱付》」を演奏した。BCJは定期演奏会を同じホールで続けているが、季節外れの「第九」は東京オペラシティ文化財団の主催公演。年末恒例の公演は、個人的にはちょうど1ヶ月前の12月24日のヤノフスキに始まり、雅明の実弟である鈴木秀美、小泉和裕を経て大晦日の小林研一郎で一服。3週間あまりを隔てて初めて、奏法だけでなく楽器自体もピリオド(作曲当時の仕様)の公演に辿り着いたことになる。いつも、これほど多くの「第九」を聴くことはないのだが、サラリーマンを卒業した記念?として、どっぷり「歓喜の歌」に浸りたくなった。掉尾を飾る鈴木&BCJは先行する4公演どれとも違う、独自の感触に彩られていた。
ファンの皆様および古楽マニアには申し訳ないけれども、最初の2つの楽章は退屈した。演奏の善し悪しではなく、単に私と今日のピリオド楽器の響きや音程感、あまりに淡々と進める鈴木のアプローチとの相性が悪かったのが原因と思われる。ところが第3楽章、ピリオド楽器の(ポジティヴな意味で)不揃いな音たちが神々しい歌を奏で始め、バッチリ目が覚めた。ニコラウス・アーノンクールが生涯かけて究めた「語りとしての音楽」が、そこにはあった。第4楽章も器楽だけの開始は驚くほど素っ気なかったのに声楽が入った途端、音楽のアニマが動き出した。特にテノール独唱のあと、管弦楽だけの部分を経て「歓喜の歌」の主題が再現されて以降の輝きは特筆に値する。古楽を得意とし、J・S・バッハの宗教曲でドイツ語を歌い込んできたBCJ合唱セクションの発音は明瞭で、フォルテッシモでもはっきり、歌詞が聴こえた。独唱者4人の人選も独特でソプラノ(アン=ヘレン・モーエン)とアルト(マリアンネ・ベアーテ・キーラント)はノルウェー人、テノール(アラン・クレイトン)とバス(ニール・デイヴィス)は英国人と、わざわざ国外から招いたのにドイツ語ネイティヴは1人もいない。オペラ歌手のように張り合う瞬間もあり、和声最優先というわけでもない。それでも鈴木の目指す音楽を理解し、様式の一致を念頭に置く姿勢には好感が持てた。
コーダ(終結部)に向けての鈴木の燃焼には、物凄いものがあった。着地点から振り返ったとき、すでに聴力を失っていた作曲家が声楽を伴う破格の交響曲を書く作業は紛れもなく、進行形の「ワーク・イン・プログレス」だったのだとする指揮者の主張も鮮明になった気がする。悪戦苦闘の末に到達した輝かしいゴールの再現において、理にかなった解釈だった。
Comentários