
18世紀末から19世紀初頭にかけてのベートーヴェンは先ず貴族階級、次いで革命の理想に背いて独裁に向かう新たな権力者たち、そして耳疾をはじめとする自身の宿命と闘った。20世紀のショスタコーヴィチは様々な病魔に襲われつつ、スターリン独裁期の旧ソ連社会を鵺(ぬえ)のように生き延びた。2人には136歳の年齢差を超え、鍵盤楽器の名手で交響曲、弦楽四重奏曲の優れた作曲家という音楽面だけでなく、過酷な運命に立ち向かう不屈の精神面でも、共通点が多い。交響曲はハイドン、モーツァルトを経てベートーヴェンで臨界点に達し、ショスタコーヴィチで1つの終着点に至る。2021年3月26日は昼にベートーヴェン、夜にモーツァルトとショスタコーヴィチを聴き、交響曲の歴史を駆け足で体験した。
1)新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会ルビー〈アフタヌーン コンサート・シリーズ〉第38回(すみだトリフォニーホール)
鈴木秀美(指揮)、崔文洙(ヴァイオリン)、長谷川彰子(チェロ)、崔仁洙(ピアノ)
ベートーヴェン「ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲」「交響曲第5番《運命》」(コンサートマスター=西江辰郎)
鈴木はピリオド楽器(バロック・チェロ)の名手であると同時に名指揮者、近年は全国各地のモダン楽器オーケストラから最も必要とされる客演指揮者の1人といえる。コロナ禍のなか兄の雅明、甥(雅明の息子)の優人ともども、来日できなくなった外国人指揮者の代役も頻繁に務めてきた。ベートーヴェンは秀美が最も好む作曲家の1人だ。新日本フィルでもヴァイオリン群を左右に分ける対向配置、ホルンやティンパニにピリオド楽器を使い、早めのテンポで引き締まった音像を造型したが、音色は意外なほど明るく、感触も柔らかい。
《運命》の通称を持つ第5交響曲は、ベートーヴェンにとって深い意味を持つハ短調を主調とするが、最後は非常に肯定的なハ長調で終わる。鈴木は繰り返しも含めてフレージングに細心の注意を払いながら着地点を一心不乱に目指す推進力を重視、一気に全曲を聴かせた。
前半の「三重協奏曲」にソロ・コンサートマスターの崔と実兄のピアニスト、楽団の首席チェロ奏者を起用したこと自体は作曲背景にも照らして妥当な半面、室内楽的妙味を発揮するまでの十分なリハーサル時間はあったのだろうか?お互いの音を良く聴こうとの気持ちが先に立ち、ソロで張り出す箇所は遠慮がち、オブリガートに回る箇所は抑え過ぎとも思われるなか、仁洙のピアノが音楽の骨格を保つ砦の役割を立派に果たしていたのが印象に残る。
2)東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第341回定期演奏会(サントリーホール)
高関健(指揮)
モーツァルト「交響曲第31番《パリ》」
ショスタコーヴィチ「交響曲第8番」
(コンサートマスター=戸澤哲夫)
大編成合唱の飛沫リスク回避によって本来のヴェルディ「レクイエム」から、かなり大胆な曲目変更なのだが、「生と死」という永遠のテーマに照らせば妙に納得が行ったりもする。
サントリーホールでショスタコーヴィチの「第8」を最初に聴いたのは、1993年4月18日のアレクサンドル・ラザレフ指揮ボリショイ交響楽団だった。ラザレフは同ホールの日本フィルハーモニー交響楽団第671回定期演奏会(2015年6月12&13日)でも同曲を指揮していたので、かなり得意とする作品なのだろう。ともに旧ソ連社会に生まれ育った世代の指揮者ならではの彫り込みと戦慄を感じさせる演奏だったと記憶する。シティ・フィルが高関と奏でた音楽は旧ソ連とは無縁の立場を逆手にとり、中途半端な想像力を封印、楽譜をひたすら忠実に追うことで、ショスタコーヴィチの〝意思のベクトル〟を剥き出しにした。聴く側も音を聴き続けるだけで結構な恐怖や不可解を味わい、それを笑い飛ばすかのような人智のしたたかさを知る。最終楽章の着地寸前に首席チェロ奏者の弦が切れたが、次席の機転と年季を積んだ高関の現場判断でダメージ極少、むしろ常任指揮者との強い結束を感じさせる場面となった。全力投球のアクシデントもまた、ライヴの一回性の魅力に帰結する。とにかく冒頭から着地まで高い緊張を保ち、隅々まで磨き抜かれた演奏で約1時間が短く感じた。
前半の「パリ交響曲」はリハーサルの時間配分の結果だったのか、アンサンブルの精度と輝きがショスタコーヴィチの水準には及ばない。「パリの聴衆に受けようと張り切り過ぎた、コテコテで異様な作品」という指揮者の解釈は十分に反映されていたし、対向配置の妙もたっぷり味わえただけに、ちょっと残念だった。
《余計な一言》
昨年の緊急事態宣言明け、有観客に戻った当時あった「休憩なし1時間」の演奏会がふと、懐かしくなった。オーケストラプレーヤーも聴衆も集中して、演奏のムラが少なかった。
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