東京都交響楽団の「都響スペシャル2021」、2月22日は東京文化会館大ホールで音楽監督の大野和士が指揮した。当初予定した定期演奏会の曲目はマーラーの「交響曲第2番《復活》」。コロナ禍の影響で中村恵里(ソプラノ)、藤村実穂子(メゾソプラノ)の独唱、新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮、ただし男性のみに削減)を生かしたまま、藤村と合唱のブラームス「アルト・ラプソディ」、中村独唱のマーラー「交響曲第4番」に変更され、冒頭に武満徹「夢の時」が加わった。女性への満たされない想いを映すブラームス、見せかけの平和や救済を冷笑するかのようなブラックユーモアに満ちたマーラーの組み合わせはなかなか興味深い。いかに没後25年の命日が同じ曲目で行われたサントリーホール演奏会の当日とはいえ、オーストラリアの原住民アポリジニの音楽に触発された武満作品が14分、ブラームスが11分という前半の構成はいささか唐突だった。「夢の時」が必ずしも、武満を代表する楽曲とは思えない。個人的には、鈴木雅明がNHK交響楽団で指揮した金管合奏曲とか、もう少し短めの作品でも良かった気がする。
ケミストリー(化学反応)は「声」が入った瞬間、始まった。藤村が「Aber(だが)…」と最初の単語を発したとたん、ドイツ的としか例えようのない音の心象風景が、確かな音色の変化を伴いながらホール全体に広がる。すでに1度の本番を終えているので、大野とオーケストラにも心の準備が整っていたのだろう、管弦楽だけの序奏部分からして(作品の違い以上に)武満とは異なる音の艶と遠近感、立体感を放つ。それでもなお、藤村の声が加わって以降のケミストリーは目覚ましく、ライヴの醍醐味を満喫した。新国立劇場合唱団は藤村との共演歴が長く、音楽家としての信頼関係も確立しているので見事な一体感をみせた。
Vater der Liebe, ein Ton seinem Ohre vernehmlich, so erquicke sein Herz!
(愛の父よ、彼の耳に届く曲が奏でられるなら、その曲で彼の心に力を与えてください!)
ヨーロッパの長い藤村は2011年の東日本大震災を境に母国への連帯感、旧友たちとのリユニオンを強め、本番に込める想いも格段に深まった。今夜もまたコロナ禍長期化で疲弊する人々の心を慰め、再生の希望を与える歌を一切の押し付けがましさなしに表現した。藤村の10数年後輩、同じように世界的キャリアを歩んできた中村も、かつて「大いなる喜びへの讃歌」と呼ばれ、レナード・バーンスタインのようにボーイソプラノを起用する指揮者もいるマーラー第4楽章の独唱パートを非常にバランスよく歌った。天使を意識したカマトト、オペラのプリマドンナを思わせるお色気過剰のいずれでもなく、しっかりとした低音の支えの上に、歌詞のニュアンスを狂いなく伝えた。この楽章での大野は一段と緩急の振れ幅が大きくなったが、中村はピタリと合わせ、かねて感心する舞台度胸の潔さを再認識させた。
都響のマーラー第4交響曲はガリー・ベルティーニ、エリアフ・インバルの両イスラエル人マエストロ以外にも、様々な指揮者で接してきた。大野の指揮にも1990年台半ば、当時常任指揮者を務めていた東京フィルハーモニー交響楽団との共演をオーチャードホールで聴いた記憶がある。前半は確か、花房晴美が独奏したウルマン「ピアノ協奏曲」。ナチスの強制収容所で落命したユダヤ人作曲家の魂を先輩格のマーラーが慰めるかのような、優しく天国的な感触の演奏だった。その後、ヨーロッパ各地の歌劇場でシェフを歴任し、現在もカタルーニャのバルセロナ交響楽団を率いる大野の解釈は四半世紀を経て、大きく変わったように思う。感情の吐露が率直になった分テンポの振幅を増し、ポルタメント(滑らかに音程を移す奏法)をはじめとする濃い表情付けも辞さず、踏み込みが良くなった。もちろん都響の木管首席奏者たちのソロ、マーラー的な音の出し方を熟知した金管群のゆるぎなさ、ソロ・コンサートマスター矢部達哉が率いる弦楽器群の充実などは、すべて賞賛に値する。過去の記憶に照らせば、大野自身の東京フィルとの演奏よりも都響第182回定期で聴いた山田一雄の指揮に近い(1983年10月15日、東京文化会館大ホール。ソプラノ=大倉由紀枝)。第3楽章のクライマックスで発した凄まじい雄叫びも含め、60代で大変身する予感が出てきた。
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