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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

菅野美智子「雨の歌」〜ボッセへの思い

更新日:2019年3月28日


表紙は故・木之下晃さん撮影の写真

2012年2月1日、日本で90歳の生涯を閉じたドイツのヴァイオリニスト、長くライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターを務めたゲルハルト・ボッセさん最後の奥様、菅野美智子さんが様々な思い出と史実を綴った初の著書「雨の歌」を「ゲルハルト・ボッセ、その肖像のための十八のデッサン」の副題とともに、アルテスパブリッシングから出版した。私より少しお姉さんの美智子さんは何と「いけたく本舗」のサイト経由で、本のことを知らせて来た。


ボッセさんは1998年に亡くなった私の父と同じく1922年、日本流にいえば大正11年生まれで健在なら3年後、100歳という計算。ともに第二次世界大戦を経験した世代だ。とりわけボッセさんはワイマール共和国、ナチスの第三帝国、冷戦で分断された共産主義国家の東ドイツ(ドイツ民主共和国)、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)と「いくつものドイツ」を生き抜いた。それだけでも十分ドラマティックなのに、晩年は霧島国際音楽祭、東京藝術大学などでの教育活動と新日本フィルハーモニー交響楽団、神戸市室内合奏団を拠点とした指揮活動を通じ、日本でさらに新たな領域を切り開いたのだから、恐れ入る。


東京藝大の客員教授時代、今は取り壊された巣鴨の外国人教員宿舎に何度か、ボッセさんを訪ねて話を聞いた。最初は1997〜99年、三菱マテリアルをスポンサーに20回も続いたカザルスホールの「休日のオーケストラ」シリーズに先立つ取材だ。「J・S・バッハが亡くなった1750年から、ベートーヴェンが交響曲第1番を完成したまでの50年間の音楽史の飛躍には、驚くべきものがある」と強調され、ハイドンやモーツァルトだけでなく、バッハの息子たちをはじめとする貴重な作品を数多く指揮。聴衆だけでなく、新日本フィルにも大きな音楽の財産を授けた。たまたま取材の前日、必ずしも高く評価していたわけではなさそうなゲヴァントハウスのカペルマイスター、クルト・マズアの辞任が決まり「池田さん、今日は本当に良い日だ。後任は誰かな? 私としてはサイモン・ラトルとか、いいと思う」と、上機嫌でいらした。2度目は2002年。新日本フィルとのベートーヴェンの交響曲全曲ツィクルスにちなんでで、「日本経済新聞」朝刊文化面の大きな記事に仕上げた。ベーレンライター新版の楽譜を綿密に検討しながら「アクセントと『カイル』と呼ばれる記号の違いに、徹底してこだわる」など、自らの過去の演奏(成功)体験をきっぱり断ち切る潔さ、進取の気性に感銘を受けた。長くヴァイオリニスト、コンサートマスター、室内オーケストラのリーダーとして活動してきたボッセさんも、大交響楽団の指揮者としては日本育ちの新進だった。


ある時は、秋田のアトリオン音楽ホールの室内オーケストラへの客演指揮に同行した。モーツァルトの交響曲第40番K.550の繰り返しをすべて実行、40分近くをかけて演奏したのは忘れられない。「単純に繰り返すのなら意味はない。1回ごとに異なるニュアンスをいかに与えるかが、解釈の要諦だよ」と、教えてくださった。懇親会に出されたスッポン鍋を最初は敬遠していたのに、「コラーゲンたっぷりで、関節痛にも効く」と聞いた途端、どんどん食べる姿は、大プロフェッサーには申し訳ない言い方だが、とてもチャーミングだった。


一介の新聞記者にもこれだけの場面がすらすら思い出せるのだから、1983〜2012年の足かけ29年間、妻として通訳として、ボッセさんを支え続けた美智子さんの脳裏には本1冊では決して足りないほどの痕跡があるはずだ。著書「雨の歌」の素晴らしさは、いくつかの重要な主題を厳選、「デッサン」の名に恥じない構図と作曲家が展開部、再現部…と構築するような筆致で、「ボッセ」という優れたフィルターを介した芸術論に昇華させた点にある。特に美術史家顔負けの知識とセンスを備え、文学や歴史にも通じた総合的人格としてのボッセ像の描写には力がこもる。実名や実例を挙げたら誰かを傷つけたり、炎上騒ぎが起きたりするので今は書けないが、日本での教育・指揮活動で痛感した「音楽、もっと言えば自分の楽器と先生にしか関心のない学生」、その「なれの果て」のルーティン演奏家の問題をボッセさんの側から逆説的に、さりげなく指摘したいとの思いも、背景にはあったと思われる。


驚いた章が2つ。「ガラスを吹く人」はボッセ夫妻が日本で偶然に見つけ、作品を買い集めるうち個人的親交を結ぶに至った吹きガラス作家、舩木倭帆(しずほ)の思い出を綴った章だが、その息子さんは何と私と同じく音楽の執筆を生業とする好漢、舩木篤也さんである。「レクイエム」の章は画家の難波田龍起と早世した息子の難波田史男の絵にまつわる話。史男の存在は私が早稲田大学に入学した1977年、美術評論家としても活躍した坂崎乙郎教授による美術史の一般教養授業で初めて知り、展覧会に出かけて大きな衝撃を受けた。坂崎先生も同業の坂崎坦の息子だが、長命だった父とは対照的に、自ら世に広めた画家の鴨居玲の後を追うように57歳で亡くなった。絵は「見る」ものではなく「読む」ものだと、頭のかたい政治経済学部の学生に教えるのは苦痛だったのかもしれないなか、長く絵を「描く」のを趣味にしてきた私には、とても有意義な時間だった。「イタリアには、エスプレッソという美味しいコーヒーがある」と最初に知ったのも、坂崎先生の授業だった。難波田父子、舩木倭帆の章を通じ、私は美智子さんと同じ時代の空気を吸っているとの思いを新たにした。


本が届いた数日後、浜離宮朝日ホールのキット・アームストロングのピアノ・リサイタルで美智子さんと、ほんと、何年ぶりかで再会した。数学や化学、作曲でも才能を発揮するアームストロング青年の個性的な演奏に私と同じく、「中毒」に陥っているという。「やっと、実演が聴けたわ」と目を輝かせる美智子さんは若々しく生気あふれていて、ひと安心。音楽と美術、文学、ドイツ語など、いくつもの教養が織りなす香り高い文章の書き手として、「雨の歌」以後も何冊か、名著を放ちそうな予感がしている。



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