「サントリーホール室内楽アカデミー第5期修了演奏会」を2020年9月28日に同ホールのブルーローズ、「東京オペラシティ リサイタル シリーズ《B→C》(バッハからコンテンポラリーへ)第224回」の枠で北村朋幹(ピアノ)を9月29日に東京オペラシティリサイタルホールで聴いた。前者はベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューベルト、モーツァルトの名曲を並べ、後者は冒頭に掲げた写真のプログラム表紙にある通りジョン・ケージを軸にJ・S・バッハから藤倉大までのスペクトラムを4種類の鍵盤楽器から編み出した。若い演奏家が世に出ていく過程で音楽をどのようにとらえ、何をメディア(媒体)として頭角を現していくかについて、深く考えさせられる2日間だった。
少し長くなるが、北村が《B→C》のプログラムに載せたメッセージの一部を引用する:
「楽譜やそれを書いた作曲家について調べていくうちに、自分がする演奏という行為には果たして意味があるのだろうか、という疑念が生まれます」
「自分の指を伝って現実になった音は、楽譜を眺めている時に見えていた素晴らしい景色や、作曲家のあまりに美しい思想から遠くかけ離れていて、理想に近づこうともがくほど音楽から純粋さが失われる。そして、音を出さないことが一番〝音楽的〟ではないかという考えに囚われる」
(中略)「プリペアドピアノの自由な響きに触れた時、理想郷から自分を遠ざけていたのはピアノという楽器ではなく、鍵盤を押せば当たり前に音が出るという事実に慣れてしまった自分なのではないかと、ふと気が付きました」
「常に楽器間を移動することにより、楽器という存在を忘れて純粋に音楽と向き合いたいという思いから派生した今回のプログラムは、実は自分がピアノという楽器を今以上に愛する事が出来るようになるための、ひとつの方法だったのかもしれません」
ピアニストである自分への疑念に始まり、再びピアノへ向き合う決意に帰結する思索の時間は結果として、聴き手の自由な想像の世界も広げた。北村がトイピアノから自身で調整したプリペアドピアノ、チェンバロ、ピアノ(普通に鍵盤を弾いたのは髙橋悠治編曲のバッハだけで、マルク・アンドレの作品では楽器のボディを打楽器として活用した)へと舞台上を旋回しながら次の作品へと向かう〝旅〟をリアルタイムで体験しながら、全身が次第に解放されていくような気分を味わう。ケージの1曲目を聴きながら思い知ったのは、トイピアノ演奏にも明らかな巧拙があって、北村はとび切り美しく弾ける名手だという実態。ケージ作品は1946ー1948年に絞られ、第二次世界大戦が終結した直後の世界に生まれた「新しい音楽」の強さ、優しさ、傷つきやすさ…を再発見する絶好の機会でもあった。前半55分、後半60分でアンコールなし。聴衆は北村と音楽の迷宮を彷徨い、確かな手応えを得た。
日本で亡くなった戦前のベルリン・フィルのコンサートマスター、ユダヤ系ポーランド人ヴァイオリニストのシモン・ゴールドベルク(1909ー1993)が最晩年にNHKのドキュメンタリー番組に出演し、語った内容は今も、演奏家の指針となる名言だ:
「2人の石工が作業をしています。『あなたは何をしているのですか?』と問われ、1人は『石を積んでいます』、もう1人は『大聖堂を建設しています』と答えました。演奏家たるもの、絶対に後者でなければなりません」
「あなたが新進ヴァイオリニストとして、メンデルスゾーンやブルッフのヴァイオリン協奏曲で大きな成功を収めたとします。エージェントやオーケストラ、レコード会社は来る日も来る日も同じような作品をオファー、簡単に利益を得ようとしがちです。しかるに演奏家たるもの、絶えず何歩か先を行き、聴衆の音楽的成長も促す責務があります。いつまでも同じ作品ばかり弾いていないで、より難しい曲、新作などへと果敢に立ち向かうべきです」
サントリーホール室内楽アカデミー第5期修了演奏会2日目では前半にチェルカトーレ弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン=関朋岳、第2ヴァイオリン=戸澤采紀、ヴィオラ=中村詩子、チェロ=牟田口遥香)がベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第12番」の第2&第4楽章、トリオ・ムジカ(ヴァイオリン=柳田茄那子、チェロ=田辺純一、ピアノ=岩下真麻)がメンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第2番」、後半にクァルテット・ポワリエ(1st.Vn=宮川莉奈、2nd.Vn=若杉知怜、Va.=佐川真里、Vc.=山梨浩子)がシューベルト「弦楽四重奏曲第14番《死と乙女》」の第1&第2楽章、タレイア・クヮルテット(1st.Vn=山田香子、2nd.Vn=二村裕美、Va.=渡部咲那、Vc.=石崎美雨)がモーツァルトの「弦楽四重奏曲第15番K.421」を演奏した。四重奏団では前半が音大在学中、後半が卒業生という年齢差もそのまま、演奏に反映されていた。
世界的講師の指導を受けながら室内楽の基本を究めるにはスタンダード優先、と頭では理解できても、名曲を公開の演奏会で聴き手に納得させるだけの水準で演奏する困難さを改めて思った。いきなり高いハードルを設定して息切れする方が、少しくらい経験を積んだからといって、技だけで押し切る演奏より何倍か心を打つとも感じた。個人的には、いくばくかの不安定を感じさせつつ、それすらシューベルトの心の揺れとシンクロさせてしまうほどの共感に満ちたクァルテット・ポワリエの「死と乙女」に、最も惹かれるものが多かった。
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