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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

自分的にはオーラのベクトルが混乱したとしか思えなかったポゴ様と山田&読響


ピアノの鬼才イーヴォ・ポゴレリッチと指揮の山田和樹の初共演、読売日本交響楽団の名曲コンサート2日目を2020年2月13日、サントリーホールで聴いた。


2016年12月13日(何故か13の一致!)に同じホール、オレグ・カエターニ指揮読響定期のラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」はたいそう耽美的で「ポゴ様健在」を強く印象づけ、第2楽章をアンコールするほどの出来栄えだった。今回はシューマンの協奏曲。例によって開演ぎりぎりまでステージ上でピアノをさらうので、人だかりができる。燕尾服に着替えた本番では恩師で亡き妻アリザ・ケゼラーゼの教えが書き込まれた古い楽譜を手に現れ、譜めくりを従えた。問題は楽譜がボロボロで紙が痛み、ホールの空調でひらひら舞うこと。第1楽章が終わると背表紙を折り直しながら、山田に何か説明していた。オーケストラのトゥッティ(総奏)を圧する力強く、透明度を保った打鍵、弱音の美しさは全くもって健在で、すべての音符を克明に再現していたが、目下の「ポゴ様」は精神状態が安定し過ぎたのだろうか?(終演後もニコニコしていた)シューマンの「限界ぎりぎりまで己を追い込む熱気と狂気」みたいな側面はほとんど捨象され、ソロの部分はゆっくり、山田との駆け引きを楽しむ部分は快速といった音の遊びが優先された。獰猛なソリストにひるむことなく、「付け」や「合わせ」の高度な職人芸を発揮しつつ、読響を完全燃焼させた山田の指揮は見事だったが、若いころからシューマンに深く傾倒して来た聴き手としては、ソリストの放つオーラの乱反射が作曲家の心理の屈折を見えにくいものにしていた気がして、残念だった。


後半はドヴォルザークの「交響曲第7番」。個人的には、ズデニェク・コシュレル(コシュラー)からラドミル・エリシュカに至るチェコ人マエストロの「正調ボヘミア節」(とりわけ民族舞曲由来の旋律の歌わせ方、リズムの打ち方)に何度も触れる一方、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロンドン・フィルの名盤、アルド・チェッカート指揮NHK交響楽団の定期演奏会などイタリア人マエストロの「カンタービレ(歌心)全開」の解釈を偏愛してきた名曲だ。山田のアプローチはチェコ〝訛り〟、カンタービレ爆発のいずれにも属さず、ブラームスと同時代人のシンフォニー作曲家としてのドヴォルザークの筆致を克明に追う路線だった。おそらくブラームスの「交響曲第2番」あたりを指揮したら成功したであろう解釈が、読響の素晴らしいアンサンブルと熱演にもかかわらず、「ブラヴォー大爆発」の着地には至らなかった。バトンテクニックに優れ、音楽性にも恵まれた新進指揮者が高性能のオーケストラを巧みに鳴らしてなお、届かない境地(「ゆらぎ」「哀愁」といった曖昧な領域に属する)を痛感させるのが、ドヴォルザーク解釈&再現の難しさなのではなかろうか。


演奏会の冒頭で演奏されたグリーグの「2つの悲しい旋律」、アンコールのアザラシヴィリ「無言歌(弦楽合奏版)」の弦楽合奏2曲は当夜で最高の出来ばえ。合唱曲や国歌を偏愛し、歌心を何よりも大切にしてきた山田の音楽性の最良の部分、読響メンバーの彼に寄せる信頼と親愛が極めて美しい響きに結晶していた。

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