ベートーヴェン生誕250周年記念の幕開けにふさわしい、充実の音楽イベントだった。「サントリーホール スペシャルステージ 2020 アンネ=ゾフィー・ムター」と題された全4回のステージから2月20日の協奏曲、21日の公開マスタークラスwithサントリーホール室内楽アカデミー、24日のリサイタルの3公演を聴いた。多くの死を身近に体験、子育ても卒業したムターはついに自己を完全解放、長年の精進で究めた作曲家の真髄を胸襟全開で伝える巫女の域に達したようだ。かつての神経質な天才少女は影も形もなくなり、日本の聴衆に全幅の信頼を寄せながら、サービス精神満点のステージマナーで臨む。折からのコロナウィルス騒ぎを受けて「元気を出しましょう!」とエールを送り、バッハの無伴奏ヴァイオリン曲の一節を一心に弾く全身から、連帯の情があふれ出る。マスターコースで客席の質問にこたえ、「音楽はグローバルな言語ですが、それにしても、皆さんの国が産んだのではない音楽をここまで深く理解し、愛し、熱狂的に受け入れて下さる日本、日本人は私たち演奏家にとって特別な存在です」と言い切る姿に、人間としての大きな成熟をみた。
協奏曲は1980年ルーマニア・ティミショアラの生まれで米国に学び、2019年からWDR(西部ドイツ放送協会)交響楽団(通称ケルン放送交響楽団)首席指揮者、2021年にはフランス国立管弦楽団の音楽監督にも就くクリスティアン・マチュラルの指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団の管弦楽。後半の「三重協奏曲」ではチェロのダニエル・ミュラー=ショット、ピアノのランバート・オルキスが共演した。冒頭の「コリオラン」序曲で思わず、耳を疑った。指揮者がオケをまとめきれず、バラけた音がする。「ヴァイオリン協奏曲」でも事態は好転せず、カタカナの「ハ」の字よろしく両手を上下、ピアニシモは物理的に音量を抑えただけで音の芯が抜け、中ぐらいの音量で旋律を歌わせる余裕もないまま、唐突なフォルテへと向かう。ムターは意に介さず、ソロが休みの間に180度身を回転してコンサートマスターの西江辰郎らに直接ボディランゲージの指示を出し、ニュアンスを与えていた。肝心のソロは大きな変貌を遂げた。表面の綺麗事には目もくれず、時にはゴリゴリ荒々しい音も出しながら、聴衆を鼓舞する人類愛の音楽を奏でていく。「三重協奏曲」では実質主役のチェロを前面に立て、オーケストラとの架け橋役に徹する配慮もみせた。その期待にこたえたミュラー=ショットのソロは朗々と天を駆け、今を盛りの華で魅了。オルキスの引き締まったピアノが的確なアクセントを与え、ソロ協奏曲以上の聴き物に仕上がった。
マスタークラスのメインはヴィヴァルディの「四季」から「春」と「冬」。ぶっつけ本番のムターは英語で指示を与え、サントリーホール室内楽アカデミーのファカルティで「アンサンブル・ノマド」リーダーをはじめ多岐にわたる分野で活躍するヴァイオリニストの花田和加子が日本語に訳していく。ステージを下り、黒いTシャツとジーンズ、かかとの低い靴のムターは予想以上に小柄。ドイツのセレブなマダムによくいる、「若いころは近寄りがたい美人だったけど、今は知的で気さくなおばさん。シワ1本にも味がある」といった風情が、実に良い味を出している。ムターはバロック音楽の様式感からストーリーの表情づけ、即興性、ヴィブラートの選択、弓使いなど様々な角度からの改善策を矢のように提案するうち、音楽の精彩や鮮度がみるみる上っていく。世界の大舞台での実践で得た現場判断だけでなくカール・フレッシュ直系の奏法の説明、見えないところで猛烈に学んだであろう古楽奏法の知識などを総合的に交え、非常に示唆に富むレッスンを繰り広げた。途中の休憩は「もったいない」と省き2時間ぶっ通しになったが、退屈の瞬間は皆無、あっという間に終わった。
リサイタルはベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ第4番・第5番《春》・第9番《クロイツェル》」の3曲。以前にもサントリーホール、オルキスの共演で聴いた記憶のあるレパートリーだが、「忠実な伴奏者」あるいは「バトラー(執事)」としての控えめなピアノが今回は名実ともにデュオの域へ踏み込み、ムターと実に緊密な室内楽の〝会話〟を展開する。ヴァイオリンの基本は協奏曲と同じで綺麗事に背を向け、ベートーヴェンが恐ろしいほどの勢いで注ぎ込んだ斬新な音楽のアイディアをことごとく、白日の下に引っ張り出す。「クロイツェル」から、これほどまで明確な「春」の痕跡を浮かび上がらせた演奏も稀だ。第2楽章で精神の愉悦の極みを示した後は一転、熱狂を通り越した狂気の世界まで踏み込んだ第3楽章が現れ、トルストイが濃密な小説「クロイツェル・ソナタ」を書くに至った心理にも何となく、察しがついた。アンコール3曲は、ホールのホームページから貼り付ける;
ベートーヴェン:『からくり時計』のための5つの小品より 第3曲「アレグロ」 ジョン・ウィリアムズ:『シンデレラ・リバティー/かぎりなき愛』より「すてきな貴方」 ブラームス:『ハンガリー舞曲』第1番
曲目をアナウンスするたび、オルキスが合いの手を入れてユーモアもたっぷりなので、夫婦漫才のインターナショナル・ヴァージョンみたいに思えた。「ハンガリー舞曲」でホール全体が興奮のるつぼと化し、「ムターのベートーヴェン祭」は幕を閉じた。今までの近寄り難い雰囲気が消え、演奏も洗練の度を増しているので、むしろ今からが楽しみな演奏家だ。
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