2021年3月5日、東京・代々木上原のムジカーザで北村朋幹のピアノ・リサイタル「Real-time Vol.2 "Neue Bahnen"(「新たな軌道」とでも訳すべきか?)」を聴いた。休憩なし1時間弱。メニューは140年あまりの時を隔てた2人の作曲家、細川俊夫(1955ー)の「エチュードⅠーⅥ」(2011ー2014)と、ローベルト・シューマン(1810ー1856)の「主題と変奏(精霊、あるいは天使の主題による変奏曲)」(1854)だけ。照明を暗くした小劇場のような空間の中央に蓋を取り払ったベーゼンドルファーのセミコンサートグランドを置き、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の設定)を保った少人数の聴衆が取り囲む。この「場」と音響の設定により、再現芸術家であるピアニストの存在がショウビジネス系リサイタルのアイドルとは真逆の方向に極小化され、創造芸術家の作曲家あるいは作品自体が主導権を握る。北村は創造芸術家の懐へ果敢に飛び込んで作品の内に潜り、音楽にすべてを語らせていく。
1986年の広島市で、この街に生まれ育ち、ドイツで羽ばたいた細川の音楽に初めて触れたとき、日本人の芸事の美徳でもある「間(ま)」=音が鳴っていない瞬間のニュアンスの豊かさに耳を啓かれた。それは、四半世紀を経て世界的作曲家の1人と目されるようになった時点で作曲したピアノ独奏のための「エチュード」においても不変のアイデンティティーである半面、より少ない音の数で「言いたいこと」を適確に伝える技には、明らかに円熟の証が記されている。対するシューマンは、すでに正気を失った後の事実上の絶筆で「問題作」とみた妻でピアニスト&作曲家のクララ(1819ー1896)が公開を禁じ、1939年にようやく出版されたため「WoO(作品番号なし)」のカートに分類されている。実は私、この曲を偏愛していて、かつてプロデュースしたシューマン特集の室内楽&歌曲演奏会にも採用した。多くのピアニストがシューマンの伝記に振り回され、シソフレニー(統合失調症?)的に弾きがちななか、北村はロマン派音楽の爛熟がやがて行き過ぎて崩壊、調性破壊や無調に向かわざるを得なかった音楽史に基づくレトロスペクティヴな視点(恐らく、です)から、桁外れにロマンティックで温かな「作曲家の肉声」として再現した。聴き慣れていると錯覚してきた作品から、これほどまでに血の通った音楽を感じたのは、今夜が初めてだった。
完全に満腹。アンコールを弾かない潔さも支持できる。音楽コンクールの審査員として北村に遭遇して16年。それでもまだ、今年で30歳だ。いったい、どこまで演奏者のエゴを消し続け、音楽そのものが自律的に存在する空間の再現者を貫くのか、ますます楽しみになってきた。終演後、楽屋で細川、北村を前に「細川さんの後に聴いたら、シューマンが妙に人間臭くて」と漏らしたら、2人とも「どういう意味ですか!」と爆笑した。他意はないです。
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