
1945年3月10日未明の東京大空襲、2011年3月11日午後の東日本大震災。2つの惨禍のメモリアルデーが2日続きで、66年の歳月を隔てていることに、私は深い思いを抱いてきた。前者の被害と悲しみについては、1998年に78歳で亡くなった私の母〜被害の激しかった下町の出身〜から「親戚や友人の多くを失った」体験として何度か聞かされた。後者は自身が東京で大きな揺れと交通機関の機能不全を経験、津波や原子力発電所の事故をテレビでつぶさに目撃した。当時の勤務先で担当していたイタリアのフィレンツェ五月音楽祭劇場オペラ日本公演は打ち切りとなり、指揮者ズービン・メータに急きょインタビューしたなかで「できるだけ早い時点で単身再来日、おそらくNHK交響楽団と、ベートーヴェンの『交響曲第9番《合唱付》』のチャリティーコンサートを開きたい」との話が生まれた。震災当時の11日夜にはサントリーホールでアレクサンドル・ラザレフ指揮の日本フィルハーモニー交響楽団、すみだトリフォニーホールでダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団が困難をはねのけ、定期演奏会を行った。あの日から自分の仕事のやり方も大きく変わり、何度か痛い目にも遭ったが、福島県での音楽活動には一貫してかかわってきた。
東京大空襲の被害が甚大だった墨田区の文化施設として、すみだトリフォーニーホールが毎年3月に「すみだ平和祈念音楽祭」を地道に続けてきた実績にも、深く敬意を表したい。今年(2019年)は静謐な感情に満ちたマックス・リヒターの音楽、フランチャイズの新日本フィルを音楽監督の上岡敏之が指揮する演奏会、東日本大震災当日、このホールにいたハーディングとマーラー・チェンバー・オーケストラがそろい、かなりの充実をみせている。
上岡が選んだコダーイの「ガランタ舞曲」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(独奏=吉見友貴)、ドヴォルザークの「交響曲第9番《新世界より》」は、3人の作曲家それぞれの故郷に対する思い、望郷の念がこもった作品だ。さらに、メタファー(暗喩)としての「日本」。アジア系のハンガリーは言語学的にもフィン・ウゴル族のルーツを日本と共有、コダーイの音楽は私たちにもノスタルジックに響く。プロコフィエフはロシア革命後、日本にしばらく滞在してから西側へ逃れた。第3番のピアノ協奏曲の第3楽章ロンド主題は、料亭などで耳に覚えた日本の旋律やリズムのエコーとされる(驚いたことに、レイフ・オヴェ・アンスネスやフランチェスコ・トリスターノら最近の若い外国人ピアニストは、このエピソードを知らない)。ニューヨークの音楽院長に招かれたもののホームシックにかられ、ドヴォルザークが祖国ボヘミアや米国先住民(インディアン)の音楽に霊感を得て作曲した「新世界」交響曲の初演に、ヴィオラ奏者として加わっていたドイツ人アウグスト・ユンケルは1899年に来日、音楽教育に大きな足跡を残し、戦争中の1944年に東京で亡くなっている。ドヴォルザーク(1893)、プロコフィエフ(1921)、コダーイ(1933)の3曲は19世紀末から20世紀前半の僅か40年間に初演されており、ロシア革命やハプスブルク帝国終焉、第一次世界大戦といった世界の激動を背景に誕生した作品群といえる。
上岡は激動の時代の音楽を深い陰影と激しい感情の振幅で描き切った。このところ「管と弦のバランスが悪い」と書き続けてきた新日本フィルだが、音楽監督の「名曲であっても3日間みっちり鍛え、曖昧さを残さない」というリハーサルの成果は目覚ましく、弦も健闘した。「新世界」ではウルトラ弱音〜振る姿は見えても音は聴こえず、ただ体感される異次元〜で驚かされた後、終楽章コーダでシュトゥットガルト時代のセルジュ・チェリビダッケを彷彿とさせる激しい追い込みに息をのんだ。アンコールはバーバーの「弦楽のためのアダージョ」。祈りに満ちた、非常に美しい演奏だった。ネット上には「東京大空襲の慰霊に、米国の作曲家の作品、しかも歴代大統領の訃報に際して奏でられる作品を選ぶとは何事か!」との書き込みもあったが、普遍の感情を伝える音楽作品において、作曲家を国籍で取捨選択する必要はないと、私は思う。ましてバーバーは現代より厳しい状況に置かれていた時代の性的マイノリティーに属し、元は「弦楽四重奏曲第1番」の緩徐楽章として作曲した純器楽曲が「すっかり葬式の音楽と化してしまった」のを嘆いていたのだから、単純に「鬼畜」として切り捨ててしまっては、なんぼなんでも気の毒だろう。
プロコフィエフを独奏した吉見は2000年生まれで今春、桐朋学園の高校から大学へ進学する新人。昨年の日本音楽コンクール第1位を納得させる腕っぷしの強さをみせた半面、特に高音部での音のソノリティの不足や、プロコフィエフのワイルドな側面に偏った解釈の一面性(アンコールに弾いた「ソナタ第7番《戦争ソナタ》第3楽章も同様のアプローチ)が興を削いだ。若い世代に未来への希望を託す人選自体は素晴らしいが、ステレオタイプの日本人ピアニストとして、どこか「先祖還り」を感じさせたのは残念。モダニズムや風刺精神など、プロコフィエフのもう一つの側面も描出できる日まで、さらなる研鑽に期待しよう。
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