• 池田卓夫 Takuo Ikeda

砂川涼子の孤軍奮闘に救われた「椿姫」


藤原歌劇団が3日連続、3人のプリマドンナに主役ヴィオレッタを歌わせるという異例のトリプルキャストで臨む「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」の初日を2019年1月25日、東京文化会館大ホールで観た。どん底から這い上がる途上とか、下り坂を力づくでねじ伏せとか、役を演じる以前の段階で自分の声楽上のプロブレムとの戦いに終始する共演者に振り回されつつも、悲劇のヒロインを見事に演じきった砂川涼子に、最大級のBrava!をおくりたい。


粟國淳の演出は悪くない。イタリア育ちのごく自然、ヨーロピアンな色彩感を基調に、巨大な絵画と額縁を象徴的に機能させて、ヴィオレッタを取り巻く状況の変化を巧みに視覚化する。第1幕では演奏全体のエンジンが全開せず、東京文化会館のプロセニアム(舞台の枠)に比して、表現世界が矮小化されたように思えた。後で聞いたら、砂川は「ああ、そはかの人か〜花より花へ」のアリアで過呼吸に陥り、1幕のカーテンコールに出られなかったとか。佐藤正浩の指揮は流麗で、それぞれの歌手の「事情」を慮る(おもんばかる)優しさも感じられた半面、創作時期的に「中期」に当たるヴェルディの一筋縄ではいかない作品の、意外なほどゴツゴツした低音の動きとか並外れた推進力の再現では、些かの不満を残した。


2幕以降の砂川は急速に持ち直し、父ジェルモンとの二重唱では悲劇のヒロイン、歌う女優としてのポテンシャルを全開にした。特にフローラの宴席に乱入したアルフレードに罵倒されて気を失い、意識を回復したとき「アルフレード…」と歌い出す瞬間の哀しみには、砂川の円熟がはっきり、示されていた。彼女だけがイタリア語を「歌う」のではなく「語り」、「演じ」た。ここでの藤原歌劇団合唱団は、演技力に対する定評を裏付けて余りあった。


最終幕では額縁の中の絵が、ヴィオレッタの肖像画〜それは明らかに死後、生前の艶姿を偲んで書かれたもので、序曲の時点で登場していた〜を除いてなくなり、ガランとした光景が死に向かう孤独の世界を描く。手紙の朗読から「アディオ(さようなら)」のアリアにかけてのヴィオレッタは、もはや手紙を読まずにそらんじていて、再会の渇望を強調する。大詰めではアルフレードもジェルモンもアンニーナも医師グランヴィルも消え、ヴィオレッタの死後の世界が広がる。倒れることもなく闇に消えていく寸前、舞台上方に現れた雲というかスモークは何だったのか? 隣の席にいらした小田島久恵さんに「キノコ雲か?」と話しかけたら、ツボにはまってしまったらしく、失笑をかった。幕切れの暗黒は素晴らしかった。


イタリア歌劇の専門家集団を目指した藤原歌劇団の歴史において、「椿姫」は非常に重要な作品だったはずだ。アルフレードは藤原義江も五十嵐喜芳も歌ったし、ジェルモンには昨年亡くなった田島好一をはじめとする名歌手がいた。バブル時代から10数年間、「新春オペラ」と銘打って上演した時期は世界のプリマドンナたちがヴィオレッタに招かれた。それ以前も砂原美智子から本宮寛子まで、独自の系譜が存在した。今回、トリプルキャスト上演に至ったのが進歩なのか、そうではないのか? 初日しか観れなかった自分に断定的なことを言う資格がないのは重々承知の上で暴言を吐けば、もっと進歩の成果をみせてほしかった。

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