• 池田卓夫 Takuo Ikeda

目をつぶって聴いてごらん!音そのものに全てを語らせるポール・ルイスの至芸


以前から好きなピアニストだった。東京・銀座の王子ホールを日本のフランチャイズとする英国のトップピアニスト、ポール・ルイスはまだ40代ながら(1972年生まれ)、透徹したピアニズムと緻密な解釈、何より音楽への真摯な眼差しで、すでに巨匠の域に達している。透明でクリスタルな輝きを保つ最弱音から作曲者の心の葛藤を最大限の振幅で再現する最強音まで、深い打鍵は楽器の性能を極限まで引き出し、音の美感を一貫して保つ。絶妙のペダリングもあって、どこまでも伸びていく倍音の響きは現役ピアニスト中、最美だと思う。


2019年9月29日、ミューザ川崎シンフォニーホールと東京交響楽団の共催の「名曲全集第149回」では同国人の新進指揮者ライアン・ウィグルスワースとモーツァルトの「2台のピアノのための協奏曲K.365」とベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」。10月1日の王子ホールのリサイタルでは「HBBプロジェクト」の第4回(最終回)でハイドンの「ソナタ第34番ホ短調」とブラームスの「3つの間奏曲作品117」、ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」を弾いた。


イングッリッシュ・ナショナル・オペラで初演した歌劇「冬物語」(2017)の作曲者で知られるウィグルスワースは、エルガーの「エニグマ変奏曲」で指揮者としても並々ならない力量を示したが、弾き振りのモーツァルトの第2ピアノは「ご愛嬌」といったところ。ルイスの端正に引き締まり、珠玉の音色の第1ピアノの引き立て役に徹していた。ベートーヴェンの協奏曲では作曲家らしく、対向配置で小編成のオーケストラから楽譜に書かれた声部のすべてを克明に引き出し、ピアノ独奏と有機的にからんでいく。ルイスの独奏は間然とするところが全くなく、全部の音符が「あるべきところ」に収まる感じ。硬質で透明ながらヒューマンな息吹を備えた音色が、ベートーヴェンへの適性を物語る。緩徐楽章で気づいたのはルイスの動作に無駄がなく、不動の上半身から肘、腕、手へと無理なく力が流れ、自在な打鍵を可能にしているので、ビジュアルに気をとられる隙のないことだ。目を閉じて聴くと自分が音楽そのもの、あるいはベートーヴェン本人と直に向き合っているかのような錯覚に陥るほど、ルイスは、スター気取りの演奏家の「ショウ」とは無縁の世界に棲息している。


リサイタルではますます、目を閉じて聴く時間が増えた。特に作品117は自分が自然界の真っただ中に飛び、ブラームスの世界に浸りきっている感慨を覚えた。ハイドンの終楽章のユーモアとペーソスがあればこそ、ベートーヴェンがフルに感情を解放、感情と意思のダイナミックレンジを広げ、新しい1ページを開けたのだと、音楽史の発展の必然性もルイスの場合、トークの無駄口ではなく、音の積み重ねだけで伝えることができるので、時には積極的に目を閉じた方が「見える」情報は多いとすら思えた。プロフェッショナルの手堅さ、揺るぎない教養、音色へのこだわりのすべてに、英国趣味の洗練が行き届いた名演奏家である。

© 2018 音楽ジャーナリスト@いけたく本舗

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