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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

沖澤のどかの魅力が全開したOMF2022モーツァルト「フィガロの結婚」


総立ちのカーテンコール(©️山田毅、提供=セイジ・オザワ松本フェスティバル)

セイジ・オザワ松本フェスティバル2022 モーツァルト「オペラ《フィガロの結婚》」(2022年8月27日、まつもと市民芸術館・主ホール)

管弦楽=サイトウ・キネン・オーケストラ、指揮=沖澤のどか、演出=ロラン・ペリー、ローリー・フェルドマン(米サンタフェ・オペラ初演のプロダクションを使用)

アルマヴィーヴァ伯爵=サミュエル・デール・ジョンソン(バリトン)、伯爵夫人ロジーナ=アイリーン・ペレーズ(ソプラノ)、スザンナ=イン・ファン(同)、フィガロ=フィリップ・スライ(バス・バリトン)、ケルビーノ=アンジェラ・ブラウアー(メゾ・ソプラノ)、マルチェリーナ=スザンヌ・メンツァー(同)、バルトロ=パトリック・カルフィッツィ(バス・バリトン)、バジリオ=マーティン・バカリ(テノール)、ドン・クルツィオ=糸賀修平(同)、バルバリーナ=経塚果林(ソプラノ=体調不良で降板したシャイアン・コスから変更)、アントニオ=町英和(バリトン)、合唱=東京オペラシンガーズ(合唱指揮=根本卓也)


フェスティバル30周年の節目に、オペラの舞台上演が3年ぶりで復活した。しかも、沖澤のどかの破格の進境とともに! 総監督の小澤征爾は自身が指揮していた時期から折に触れて日本の若手指揮者をサイトウ・キネン・オーケストラに招き、フェスティバルの将来への備えにも怠りがなかった。しかし齋藤秀雄(1902ー1974)の弟子世代から世界の名手の集合体へと次第に変貌、さらに猛者集団の様相を強めた同オケを前に萎縮するのか、大きな成果を残せなかったケースがほとんど。改めて「ポスト小澤」のハードルの高さを思うが、沖澤はプレッシャーを全く感じさせず、指揮するのが「楽しくて仕方がない」風情でごく自然体、時に大胆な切り込みをみせながら、モーツァルトの音楽を弾ませ、キャストそれぞれに生身の命を吹き込んでいく。ただガンガン振り進めるわけではなく、イタリア語のニュアンスやドラマの設計に沿って緩急自在、音楽のクライマックスに至る寸前には大胆な間(パウゼ)もいとわない。メンバーも沖澤に惚れ込み、絶賛のコメントをSNSで発信していた。


ペリー&フェルドマンの演出は世界の激変、欲望の暴走といったダ・ポンテ&モーツァルトの視点を18世紀から20世紀前半、第二次世界大戦前夜に移し、追い詰められた人間たちの悲喜こもごもを生々しく描く。全体を時計の文字盤に見立て、歯車を組み合わせた回り舞台の採用で階級格差(部屋のサイズ)や時間の経過を明確に示すアイデアも秀逸だった。支配階級も被支配階級も全員がある種の強迫観念(オブセッション)の下で苛立ち、立場も顧みず、モラルを逸脱していく。フィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」はケルビーノへのからかいのみならず、伯爵への嘲りとしても再現される。普段はコミカ(喜劇役)側に徹しがちなマルチェリーナも貴婦人の品格を保ちながら、生身の女の欲情を垣間みせる。


キャストも演出のコンセプトに沿って選ばれ、適材適所。米国系が中心で、何人かの歌手のイタリア語が不明瞭だったのが唯一、不満として残る。中でもマルチェリーナ役のメンツァーは1997年のメトロポリタン・オペラ(MET)日本公演で同じモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」のドラベッラ役を歌うなど、長く世界トップクラスの歌劇場で活躍したスターでアンサンブルの隠れた要、若い歌手たちを励ます役割を担い、ベテランの至芸を発揮した。スザンナのイン・ファンはフレデリック・ミッテラン監督のオペラ映画「蝶々夫人」(1995)で主役を演じた同じく中国人のイン・ファン(1968ー)とは同名異人、まだ35歳の新進だ。私は2019年ザルツブルク音楽祭で「イドメネオ」(モーツァルト)のイリア役を歌うのに接し、強い印象を受けた。今回も俊敏な身のこなし、しっかりした発声で音楽面からもキャラクターを描き切る能力が素晴らしい。伯爵夫人のペレーズ、日本では「ペレス」と表記されることが多いが、2006年のザルツブルク音楽祭日本公演でも同じ役を歌い、2010年の英ロイヤルオペラ日本公演「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」(ヴェルディ)では、本番中に音声障害で降板したエルモネラ・ヤオに代わり、後半のヴィオレッタを見事に歌い上げた。今やMETを代表するプリマドンナに成長、16年前とは比べものにならないほど陰影のある歌唱、全く衰えのないテクニックで伯爵夫人の悲哀を細やかに再現した。


フィガロのスライ、伯爵のジョンソンの雰囲気や音色が似ているのも演出意図の1つと思われ、1個の男性の欲望の「2つの展開」を巧みに象徴した。見た目も声も良く、大人のラヴ・コメディーにふさわしい人選といえる。急な代役の経塚も含め、日本人3人も隙なくアンサンブルの一翼を担った。4声部各4人の合唱も精鋭がそろい歌、動きとも万全だった。もう1人功労者を挙げればレチタティーヴォでセンス抜群のコンティヌオ(通奏低音)を奏でたチェンバロのブライアン・ワゴーン。茶目っ気もあり、聴き惚れる瞬間が多々あった。


1980年のカール・ベーム指揮&ジャン=ピエール・ポネル演出、1994年のクラウディオ・アバド指揮&ジョナサン・ミラー演出(これも回り舞台)のそれぞれ超ゴージャスなウィーン国立歌劇場日本公演の記憶を持つ旧世代の1人としては、「最高の『フィガロ』を観た」とまでは言えないのが残念だ。しかしながら、新しい時代の新しいアーティストによる、別次元の上演によって、作品がまた新しい生命を得た成果には、心からの拍手を贈りたい。

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