日本フィルハーモニー交響楽団第733回東京定期演奏会1日目(2021年9月10日、サントリーホール)
指揮=山田和樹、コンサートマスター=扇谷泰朋
ショーソン「交響曲」
水野修孝「交響曲第4番」(2003)
藤原歌劇団(新国立劇場・東京二期会共催)ベッリーニ「清教徒」(9月11日、新国立劇場オペラパレス)
エルヴィーラ=光岡暁恵(ソプラノ)、アルトゥーロ=山本康寛(テノール)、ジョルジョ=小野寺光(バス・バリトン)、リッカルド=井出壮志朗(バリトン)ほか。藤原歌劇団合唱部・新国立劇場合唱団・二期会合唱団(合唱指揮=安部克彦)、オルガン=藤原藍子
演出=松本重孝、管弦楽=柴田真郁指揮東京フィルハーモニー交響楽団
東京ニューシティ管弦楽団第141回定期演奏会(9月12日、東京芸術芸場コンサートホール)
指揮=飯森範親、ヴァイオリン=郷古廉、コンサートマスタ=執行恒宏
R・シュトラウス「交響詩《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》」
ベルク「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」
リゲティ「ポエム・サンフォニック(100台のメトロノームのための)」
ストラヴィンスキー「バレエ音楽《春の祭典》(1967年版)」
2021年9月第2週末、中堅世代の演奏家たちによる意欲的な公演をたて続けに聴いた。来年4月に「パシフィック・フィルハーモニア東京」と改名、飯森範親が音楽監督に就くニューシティ管については「音楽の友」に批評を書くので、ここでは他の2公演に触れておく。
4楽章構成で40分もかかる水野修孝(1934ー)は、「何でもありの昭和」の喧騒をタイムカプセルに詰め込んだような作品で、ひたすらエネルギッシュ。「現代音楽の典型」風に始まり、美しいコラールや弦楽四重奏、サロン音楽風のピアノソロ、さらにシンフォニック・ジャズへと展開していく。日本フィルのシーズンは9月開始、このところ正指揮者の山田の〝指定席〟で日本の作曲家の埋もれた作品発掘を柱の1つとする。水野作品は昨年9月に指揮する予定だったが、感染症対策の途上で大編成が見送られ1年後のリベンジとなった。指揮には「水野作品でコロナ禍をぶっ飛ばせ!」の気合いが入り、楽員もマッシヴな弦から鮮やかなソロまで共感に満ちた演奏を繰り広げ、臨席した87歳の作曲家も満足そうだった。
その分、ショーソンのリハーサル時間にシワ寄せが行ったのか迫力は感じるものの音色の幅に乏しく、弱音から強音までの色彩グラデーションが「もう少しあってもいい」と思った。管楽器の吹きはじめの乱れなども散見され、できれば2日目を聴いてみたかった。演奏頻度は高くないが、東京では20世紀の終わりから21世紀初頭にかけてジャン・フルネが好んで指揮した作品として知られ、後継世代のシルヴァン・カンブルランも取り上げるなどフランスの名指揮者の演奏が記憶に色濃い。山田と日本フィルは音色、フレージングなどにヨーロッパの香りがあまりせず、いささかモノトーンな推進力で押し切ってしまったのが惜しい。
一方、藤原歌劇団は毎年9月に新国立劇場、東京二期会と3者共催で設けた公演枠。かつてはミキエレット演出、ド・ビリー指揮のプッチーニ「三部作」などを相互乗り入れのキャストで上演していたが、いつの間にか合唱以外は藤原の公演となり、今年の二期会は同じ期間に東京文化会館で「魔笛」をかけていた。おかげでオペラファンは新国立劇場、二期会ともあまり熱心に上演しないロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニのベルカント歌劇を初台の優れた音響と舞台で堪能できる機会を授かったともいえる。私が生まれて初めて観たベルカント歌劇の実演は1981年2月の東京文化会館大ホールの藤原公演、ベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」日本初演で粟國安彦(淳の父)の演出、ニコラ・ルッチの指揮による日本語上演(!)だった。以来、ベッリーニの美しい旋律や究極の歌唱芸術に魅せられて内外の公演に接し、生地シチリア島カターニャの大聖堂の「お墓参り」も済ませたが、早世した作曲家最後のオペラ「清教徒」の上演頻度は「ノルマ」「カプレーティ」「夢遊病の女」よりも低く、実演に接するのは今回が初めてだった。簡素で象徴的な装置とほぼオーソドックスな衣装、アリアは正面を向いて歌う松本演出は「最初に観る舞台」として適切だった。合唱団全員のマスク着用は仕方ないが、ここまで徹底すると仮面劇の様相を呈していた。
いよいよ大劇場の本公演に進出した柴田の指揮は今までにも増して情熱的で東フィルをよく歌わせ、歌手の呼吸にもピタリと寄り添う。今後ますますの活躍を期待できそうだ。
キャストでは井出が群を抜き、光岡がこれに次いだ。いかに台本が弱くとも、音楽を適確な技巧で歌いこなす以上にドラマの登場人物に現代の命を吹き込み、リアルな人間と感じさせた井出に対し、光岡にはまだ微量の躊躇があった。超高音へのオブセッション(強迫観念)があまりにも過酷なアルトゥーロ役において、山本の今回の〝仕事ぶり〟をどう評価するかは、それぞれの観客が「何を期待するか」にかかっている。ヒロイックなキャラクターを演じるのにふさわしい容姿と演技力(発音も含め)、中低音の光沢とヴォリュームを伴う響きに対し、ファルセットも交えつつ慎重に慎重を重ねて絞り出す、あるいは決死?の覚悟で絶叫する最高音は必ずしも満足のいくものではなかった。考えに考え、何とかベストを尽くそうとする努力(それはそれで、彼の誠実な人柄の反映でもある)の痕跡が消えない限り、聴く側の陶酔は生じない。コンディションが万全ではなかったし、次に期待をつなぎたいとも思うが、テクニック的には何か意表をつく改善策があるかもしれない。予習で聴いたCD、1973年録音のベヴァリー・シルズ(ソプラノ)主演、ユリウス・ルーデル指揮ロンドン・フィルの全曲盤(旧ウエストミンスター=現ドイッチェ・グラモフォン)のニコライ・ゲッダは一般にルチアーノ・パヴァロッティのようなベルカント・テノールとは認識されていなかったが、独特のテクニックでアルトゥーロの高音域を歌いきっている。山本、頑張れ!
何はさておきベッリーニの美しい音楽に浸り、若手から中堅にかけての演奏家が懸命に再現する姿を目の当たりにして、「来て良かった」と心から思える上演だった。
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