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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

水谷川優子とゴトーニ父子、練達トリオ


4日間に2公演。本編の曲目には1曲の重複もなかった。

チェロの水谷川優子が毎年初夏に開くリサイタルシリーズの第12回は2019年5月10日の紀尾井ホール。日本とフィンランドの外交樹立100周年を記念、フィンランドを代表するピアニストで指揮者、作曲家のラルフ・ゴトーニと、その長男で水谷川の夫でもあるヴァイオリニストのマーク・ゴトーニを迎えた「スペシャル・トリオ」の演奏会となった。10連休明けの火曜日、7日には日経ホールの「第484回ミューズサロン」に全く別のプログラムで出演。わずか4日間にトリオや2重奏の多彩な作品を聴きながら、水谷川が上質のコラボレーターを家族として得てチェリスト、室内楽奏者として長足の進歩を遂げ、今や自身の「肉声」のような自在さで楽器を操り、音楽のメッセージを漏れなく伝えられる域にまで熟してきた実態に深い感銘を受けた。20年以上前に知人から紹介され、初めて接した時のいささか頼りない演奏を知る者の1人として水谷川と同じ時間を共有、豊かな音楽の実りを分かち合えるのは、望外の幸せといえる。


日経ミューズサロンではベートーヴェンの2作〜第4番「街の歌」と第5番「幽霊」の間にショスタコーヴィチの第2番をはさんだ「ピアノ三重奏曲」の王道プログラムに挑んだ。ドイツでは教育分野の実績も豊富なラルフのピアノは作曲家の視点も交え、ベートーヴェンの様式を的確に押さえながら、持ち前の透明度の高いタッチ、前へ前へと進む音楽性で古典を現代によみがえらせる。マークの艶やかながら湿り気がなくて透明、「北欧風」とも呼ぶべきクールな音色が形をきりりと引き締め、水谷川の温かく、たっぷりと奏でる歌のラインと美しい対照をなす。それぞれ忙しく、いつもトリオ演奏だけ行なっているわけではないが「ファミリー」の結束は固く、日常生活を通じて共通の音楽観をはぐくみ、折に触れて合奏も楽しんでいるのであろうか、解釈のズレは皆無で、アンサンブルにも隙がない。ハウスムジーク(家庭音楽)の親密度を保ちながら、プロフェッショナルな室内楽演奏のクオリティを備えているおかげで、ショスタコーヴィチの複雑に入り組んだ作品も面白く聴けた。


アンコールには日本とフィンランドの国交100周年にちなみ、水谷川の祖父に当たる昭和の大指揮者、近衛秀麿が作曲した歌曲「ちんちん千鳥」のピアノ三重奏版を弾いた。バロン近衛は1941年にヘルシンキに客演した際、シベリウスと面会する機会を得たそうだ。


紀尾井ホールは「リサイタル」と銘打っただけに、トリオ演奏は後半のドヴォルザーク「ピアノ三重奏曲第4番《ドゥムキー》」だけ。前半にはフィンランドの作曲家3人のデュオ曲を並べた。最初はシベリウス。チェロとピアノの「マリンコニア」で始め、ヴァイオリンとピアノの「ロンディーノ」「ロマンス」「マズルカ」が続いた。リサイタル会場で配布したプログラム冊子の曲目解説は私の執筆だったが、「ロマンス」は当初チェロの予定だった。印刷完了後、優子さんから「マークに取られちゃったの!」とメールが来て愕然。結果的に「些細なミス」となってしまい、失礼しました。ここでも豊潤に歌うチェロ、クールに弾ませるヴァイオリンのコントラストが、小品をミクロコスモスのように輝かせていた。


続いてはラルフが2003年、北宋時代の中国の禅僧、廓庵が「悟りに至る10の段階」を描いた「十牛図」に想を得て作曲した室内カンタータの中の2曲〜第7図「忘牛存人」と第9図「返本還源」を自身でチェロ&ピアノに編曲した小品の日本初演。次第に俗気が抜け、悟りの世界に近づいていく歩みが驚くほど克明に音化され、深い余韻を残した。休憩時間にCDを買っている人を目撃したが、帰宅後に再生してチェロが現れず、カンタータが始まったら「さぞ驚くだろう」などと、余計な心配をしてしまった。前半の最後はフィンランドの現役最高齢チェリスト、エルッキ・ラウティオ(1931〜)の実兄に当たるマッティ・ラウティオ(1922〜86)の出世作「ディヴェルティメント第1番」(1955)。本来はチェロと管弦楽の作品だが、作曲者自身がチェロ&ピアノ版の編曲も手がけた。3楽章構成ながら、冒頭の「序曲」があまりにも軽快でノリがいいため、途中で拍手が起きた。


後半の「ドゥムキー」では日経ホールと同じく、練達のトリオ演奏の醍醐味を堪能した。アンコールの1曲目はベートーヴェンの「街の歌」第2楽章、2曲目は「ちんちん千鳥」。多彩で満足度の高いリサイタル公演だった。

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