2019年9月22日から30日までの間にJ・S・バッハ、ヴィヴァルディをはじめとする18世紀のヴァイオリン音楽をモダン(現代仕様の)楽器の1人、ピリオド(作曲当時の仕様の)楽器の2人で、たて続けに聴いた。結論を先に書けば、楽器やピッチの違いよりも、楽曲に対する「見方」「感じ方」の違いが共演者との共感、聴衆の理解や感動を左右する当たり前の事実を改めて確認した。
「週末のサイドジョブ」だった音楽の執筆を人事異動に伴う「業務」として行うようになった1993年、18世紀音楽(当時は「バロック音楽」の呼称の方が一般的だった)への目を開かれる2つの出会いがあった。1つは1963年、大阪音楽大学在学中に現在の日本テレマン協会につながる古楽器アンサンブルを組織したオーボエ奏者・指揮者の延原武春と出会い、多くの教えを授かったこと。もう1つはロンドンでエンシェント室内管弦楽団を立ち上げ、ピリオド楽器によるモーツァルト「交響曲全集」を最初に録音した指揮者のクリストファー・ホグウッドにインタビューしたときに「ピリオド」の言葉を初めて教えられ、以後の拙稿での表記を古楽器から、ピリオド楽器へと改めるきっかけになった出会いだ。
厄介なのはヴァイオリンの場合、ボディはストラディヴァリやグァルネリが製作したアンティーク(古楽器)でも、弦がガット(羊腸)ならピリオド、金属ならモダンと「2つの顔」を持つので、カッコ内には「作曲当時の」ではなく「作曲当時の仕様の」としないと、ピンカス・ズッカーマンのように「私の楽器もアンティーク。バロック・ヴァイオリンと同じだよ」と言い張るモダン楽器奏者と峻別することができない。四半世紀あまり経ち、「ピリオド楽器」「ピリオド奏法」の表記が定着したは喜ばしい(日本で最初に使った書き手のことも、たまには思い出してくださいね!)。ピリオドVSモダンの闘いが終わって久しく、ヨーロッパでは今や両者を同時に学び、融合させるなかでHIP(歴史的情報に基づく演奏)を自然に身につけていく音楽学生、ソリスト、指揮者が大半だ。一部の日本人演奏家(例えヨーロッパ在住であっても)が依然、アーティキュレーションやフレージングに無頓着なまま、全音均等の熱演で事足れりとしている実態もまた、日本のガラパゴス化の一例かもしれない。
9月22日の東京フィルハーモニー交響楽団第926回オーチャードホール定期演奏会で首席指揮者アンドレア・バッティストーニとともにヴィヴァルディの合奏協奏曲集「和声と創意の試み」の最初の4曲「四季」を演奏したヴァイオリニスト、木嶋真優は原曲に添えられたソネット(14行詩)の描写を擬音化して語りかけるでもなく、ただひたすら全音均等、フィリップ・グラスのミニマルミュージックを思い出すほどに切れ目なく、モダン楽器を鳴らし続けた。バッティストーニが小編成のアンサンブルに細やかなニュアンスを与えても、特に反応しない。別に半音下げてピリオド楽器のように弾けなどと、言っているわけではない。モダン楽器にはモダン楽器の良さもあるし、オーケストラもモダン楽器でモダンピッチだ。問題は楽曲や合奏へのコミットメントが通り一遍で、「今なぜ、この曲を弾くのか」というアウスザーゲ(ステートメント)が全く聴こえなかった点にある。同じモダン楽器の同じ女性スター奏者でも前橋汀子とミラノ・スカラ座合奏団(ソニー)やチョン・キョンファとセント・ルークス室内管弦楽団(EMI)の録音、2018年にサラ・チャンがNHK交響楽団若手奏者の弦楽五重奏団と行ったコンサート(2018年10月25日、紀尾井ホール)には入念な様式吟味の痕跡があり、立派なHIPとして成立していた。
後半、新国立劇場合唱団の女性合唱(冨平恭平指揮)を交えたホルストの組曲「惑星」ではバッティストーニの音楽性とアイデアが全開、東京フィルも感動的なほどに壮大な名演奏を成し遂げただけに、前半の「言語明瞭意味不明」は残念だった。木嶋は以前にも故ラドミル・エリシュカ指揮の札幌交響楽団とモーツァルトの協奏曲を演奏する際、事前に何の連絡もなしに名人芸全盛期のヤッシャ・ハイフェッツのカデンツァを持参し、いかに老大家とはいえ、最新の楽譜で準備していたマエストロを驚かせた〝実績〟がある。ヴァイオリンの腕前は達者で音も美しいのだから、もっと自身に関心のある時代の作品に特化してオジサンたちの批判の対象外へと逃れるか、18世紀音楽やHIPを徹底的に掘り下げてリベンジを果たすか、まだ若いのだから、もう少し音楽の研さんだけに集中して良い時期なのではないか?
2日後の24日。声楽コンクールの審査で朝から夕方まで30人の熱唱(絶叫?)を聴き続けた後に浜離宮朝日ホールへ移動、ともにオランダ在住の山縣さゆり(ヴァイオリン)、天野乃里子(チェンバロ)によるJ・S・バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタBWV.1014~1019(全6曲)」を聴いた。繰り返しを省いたので、休憩1回をはさみ、ちょうど2時間の演奏会に仕上がった。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV.1001~1006」の6曲セットと同様、大バッハが一定期間で1つのジャンルを極めた連作で同工異曲の反復の逆、1曲ごとに異なる実験精神を発揮しながら、短期で大きな進歩を達成するワーク・イン・プログレスの様相を呈している。フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラのコンサートマスターを長く務めるなど、ヨーロッパでも第一人者と目されてきた山縣のヴァイオリン、日欧の音楽大学だけでなく慶應義塾大学で美術史も学んだ天野のチェンバロは美意識の根幹を共有、ひたすら作品に語らせる路線に徹して味わい深い。ヨーロッパでの日常生活を土台にした「地に足のついた音楽」が、疲れた耳を癒してくれたのは何よりだった。
6日後の9月30日。同じ浜離宮朝日ホールには同じくアムステルダムから、オランダ・バッハ協会管弦楽団(NBS)が2018年6月に第6代音楽監督となった佐藤俊介に率いられ、来演した。日本生まれ米国育ちの佐藤は最初、モダン楽器の名手として10代で頭角を現した後にヨーロッパへ渡ってピリオド楽器を学び、コンチェルト・ケルンのコンサートマスターに抜擢された(現在も兼務)。NBSのコンサートマスターの1人には山縣もいるが、2人のつくる音楽は対照的だ。ゆっくり語りかける(パルランドな)山縣に対し、佐藤は弾き振りでアンサンブルをぐいぐい引っ張り、ロックコンサートに匹敵する熱狂をバッハで実現する。良し悪しでも好みの差異でもなく、大きな表現の振幅のスペクトラムを整え、バッハおよび18世紀音楽の解釈の可能性を未来へとつなげる、明確な活動方針の反映だろう。ソリストも名手ぞろいで、ジョン・エリオット・ガーディナーが創設したオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティックの首席フルート奏者マルテン・ロート、チェンバロのディエゴ・アレス、オーボエのエマ・ブラックらが素晴らしい独奏を披露した。「ピリオド楽器は苦手」と敬遠している人でも、輝かしく弾ける音楽には絶対に圧倒されるはずだ。次は長く売り物にしてきたオランダ・バッハ協会合唱団とともに是非、再来日してほしい。
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