新国立劇場オペラの再演2作品ーーマティアス・フォン・シュテークマン演出のワーグナー「さまよえるオランダ人」(2007年初出)とチェーザレ・リエヴィ演出のドニゼッティ「愛の妙薬」(2010年初出)は当初予定の指揮者、キャストの来日不能に伴い、たまたま入国済だったイタリア人ガエタノ・デスピノーサ(1978年パレルモ生まれ)の指揮とオール日本人キャストに替わったが、蓋を開ければ、驚くほど高水準の上演に仕上がっていた。
「オランダ人」は2022年2月2日の昼公演を観た。マリー役の山下牧子(メゾソプラノ)がコロナ濃厚接触者(本人は陰性)、カヴァー歌手も感染の疑いがありNG、バイロイト音楽祭に出演経験があるとはいえ、マリーは初めて(「東京・春」音楽祭の子どものためのワーグナーはマリー役とはいえ、歌うのは合唱パートだったという)の金子美香が前日に代役を依頼された。金子は舞台下手袖(客席からみて左側)で楽譜を立てて歌い、舞台上では再演演出の澤田康子がマリーの衣装で動いた。ヨーロッパでは何度か体験したが、日本で〝二人羽織〟に遭遇したのは初めて。
金子を含めた日本人キャスト全員が二期会会員。題名役の河野鉄平(バス)が昨年12月の「わ」の会公演に初参加、「オランダ人のモノローグ」を歌った時は代役の「だ」の字もなく「まだ一本調子だし、これからワーグナーを本格的に歌っていくのだろう」くらいに思った。突然の大抜擢にはびっくりしたが、私が観た日はすでに3回目の本番、歌の感情の陰影や発音、ペース配分が劇的に進歩し、オランダ人の内面の屈折をかなりの再現度で描いた。今回が新国立劇場デビューの田崎尚美は東京二期会公演の「パルジファル」「タンホイザー」「サロメ」などで次第に頭角を現したドラマティック・ソプラノ。今回もゼンタの妄想からオランダ人救済に向けてのパッションの爆発に至るまで、素晴らしい歌唱を披露した。
もう1人の収穫はエリックの城宏憲(テノール)。これまでカラフ、カヴァラドッシなどイタリア物で優れた資質を発揮してきた。ドイツ物を聴くのは初めてだったが、発音は丁寧、直情径行キャラクターの激情を表現するのにヴェリズモでの蓄積も生かし、非常に魅力的なエリックに。第3幕大詰めでの河野、田崎、城のぶつかり合いは見事だった。妻屋、鈴木、そして急場を救った金子の歌唱も手堅いし、新国立劇場合唱団(指揮=三澤洋史)も相変わらず正確で迫力十分、短い準備期間にもかかわらず隙ないアンサンブルに仕上がっていた。
デスピノーサは最初ヴァイオリニストとして注目され、2003ー2008年にワーグナー自身がかつて宮廷指揮者に君臨したドイツ・ザクセン州立歌劇場のオーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンのコンサートマスターを務め、当時の音楽総監督(GMD)ファビオ・ルイージの勧めで指揮者に転向した。デスピノーサは東京交響楽団(コンサートマスター=小林壱成)から柔軟な旋律線と色彩感を引き出し、緩急自在に歌を支えていく。最初は少し薄味、次第に密度を高め、終盤で一気に盛り上げていくペース配分もよく、久しぶりにワーグナーを聴く「ワクワク感」を味わった。とりわけ、最初はイタリア歌劇に憧れてオペラの作曲を目指したワーグナーの響き対する志向を浮き彫りにしたのが印象的だ。演奏がここまで充実すると、マティアスの「大人しい演出」の「音楽を邪魔しない」利点が生きてくる。
「愛の妙薬」は2月7日の再演初日(夜公演)を観た。リエヴィのカラフルでポップな演出は、合唱の人数や動きに感染症対策の配慮が加えられたとはいえ、初演後10年以上を経過した今も鮮度を失っていない。管弦楽の冒頭を聴いただけで、デスピノーサがベルカント歌劇作曲家の中で最もシンフォニックな陰影に富み、ウィーンでも人気のあったドニゼッティの音楽語法・様式をいかに適確に把握しているかがわかる。東京交響楽団(コンサートマスター=水谷晃)は東京フィルほど大所帯ではなく、コンサートマスターこそ交代したものの、かなりの楽員がワーグナーの本番とドニゼッティのリハーサルを掛け持ちしたと思われるが、デスピノーサが示した様式感の違いによく応え、明るい響きで際立った。カンタービレの強じんさも、なかなかのものだった。
キャストはベルコーレの大西宇宙(ジャパン・アーツ所属で新国立劇場デビュー)、ジャンネッタの九嶋香奈枝(二期会)を除く3人が藤原歌劇団の所属。「オランダ人」と同じく急な代役発注でリハーサル時間も限られたためか、幕開けは全員が固かったが、デスピノーサが巧みに引っ張りながら支え、第1幕の半ば頃にはもう、エンジンが全開した。最も驚いたのはネモリーノ、中井亮一のベルカント・テノールとして縦横無尽のテクニックと極めて明瞭なイタリア語の発音、演技もどんどん精彩を増し、大詰めのアリア「人知れぬ涙」では大きな拍手を浴びた。対するアディーナの砂川涼子は2000年に小劇場シリーズ第1作の「オルフェオとエウリディーチェ」(グルック)で新国立劇場にデビューした頃に比べ、声量は随分スリムになった半面、音符とキャラクターを全身に取り込み、高度のテクニックと表現力で引っ張る力量は一段と凄みを増していて、フィナーレを見事に決めた。ドゥルカマーラには久々の久保田真澄。すでに国立音楽大学教授の重鎮ながら、ベルカント歌劇のブッフォ(コメディアン)役の何たるかを完全にわきまえ、健在を示した。大西も美声、舞台映えのする容姿、あえてオーバーアクションの演技で、ブッフォへの適性を感じさせた。久嶋は本演出3度目のジャンネッタだけに、自然な佇まい。合唱(三澤指揮)も引き続き好調だ。
ワーグナーは実質二期会、ドニゼッティは「ほぼ」藤原歌劇団の上演で顔ぶれもお馴染みだったにもかかわらず、いつも以上の精彩を放ち、完全燃焼で代役のハンディーを感じさせなかった理由はどこにあるのだろう? ひとつにはもちろん、歌手のポテンシャルを100%かそれ以上に引き出していくデスピノーサの職人的手腕と現場管理能力。もう1つは再演システムが整い、コレペティートルをはじめとする音楽スタッフも充実、優れた舞台機構を備えた新国立劇場でプロとして、歌と演技に集中できる環境(当然、チケットノルマはない)を得たからだと思われる。
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)は世界のスターを集める一方、米国人歌手の育成に熱心なことでつとに知られ、現在のオペラ芸術監督の大野和士を新国立劇場オープン(1997年)直後にインタビューした時にも「やがては日本のMETになってほしい」と語っていた。オペラ研修所こそ成果を上げてきた(中村恵里、藤木大地、与那城敬ら枚挙にいとまなし)が、本公演キャストは海外歌劇場の豪華引越公演に慣れ親しんだ高齢リッチなファン層の「舶来&スター崇拝志向」に阻まれ、なかなかMET並みの内外比率に届かないまま、四半世紀近くが過ぎた。それがコロナ禍を受けた実質鎖国状態により、一気に「日本のMET」化が進行しつつあるような錯覚を覚えている。
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