
東京芸術劇場の企画制作によるプーランク「オペラ《人間の声》」とビゼー「劇音楽《アルルの女》」の二本立て全曲の演奏会形式上演を2022年1月8日、池袋の同劇場コンサートホールで観た。詳しい上演意図は昨年11月16日に開かれた記者会見の詳報をご参照下さい↓
新春早々ものすごく充実した音楽劇の再現に出くわした、というのが第一印象。モノオペラ(1人芝居)の前半では女性、後半(朗読劇)では男性が恋に溺れる(自由を求める?)あまり自縄自縛に陥り、死に至る。ジャン・コクトー台本によるプーランク最後の歌劇(1959)の管弦楽はピアノ伴奏時に比べると雄弁さを増し、前作「カルメル会修道女の会話」(1957)と共通する響きが随所に現れる。佐藤がコントラバス奏者の今野京とともに2005年から運営するザ・オペラ・バンドはコンサートマスターに永峰高志、チェロに上村文乃、フルートに神田勇哉、クラリネットに伊藤圭、ホルンに福川伸陽、ティンパニに久保昌一ら在京オーケストラの首席クラスを集めた腕利き集団。ケント・ナガノ時代のリヨン国立歌劇場で首席コレペティートアを務めた佐藤はパリ在住歴も長く、フランス音楽の響きのつくり方、オーケストラの鳴らし方を適確に身につけている。「女」を演じたソプラノ、森谷真理はフランス音楽スペシャリストとは異なる発音アプローチながら、体の奥底から振り絞るような発声をホールの隅々まで届け、管弦楽のフォルテを突き抜けた表現で圧倒する。ソファー、電話器がコンサートマスターの前あたりに置かれたが、譜面台が立てられ、演技は最後の場面だけにとどめた。現れるなりハイヒールを脱ぎ捨て、演奏を終えた後も裸足で舞台を駆け抜けた森谷の姿は何となく「男前」で、新しい時代のプリマドンナを実感した。
「アルルの女」は、佐藤が日本語台本を書き下ろした。管弦楽の繊細な味わいも、数日前に別の指揮者とオーケストラで聴いた、やたらと景気ばかりがいい音響とは一線を画し、チェロやヴィオラの軽く高めの音の出し方をはじめ、フランス音楽の流儀に一段と忠実だった。武蔵野音楽大学合唱団(横山修司指揮)の切り立った合唱は南フランスの小さな村の群衆として、閉塞感や一種の残忍さを際立たせる。「ファランドール」の〝原曲〟が組曲版の活気あふれる管弦楽ではなく、はるかに含蓄のある合唱だと知れたことをはじめとする発見も多く、90分に及ぶ上演時間も退屈には感じなかった。
俳優チームでは語りと主役の青年フレデリの祖父、父フランセ、「アルルの女」をめぐる恋敵の馬番を1人で担う松重豊、フレデリの母ローズと婚約者ヴィヴェットの対照的2役を見事な声色変化で描き切った藤井咲有里の2人が強い存在感を放った。出番は少ないが、フレデリの弟で「白痴」とされた青年の変化を巧みに演じた的場祐太もいい。問題は発声なのか演奏会形式の限界なのか俄かに判断はつきかねるにしても、フレデリの木山廉彬のセリフがやや一本調子、真夜中3時にバルコニーから身を投げる結末が曖昧で客席にきちんと意識されずに終わった点だ。木山は繊細で傷つきやすく、小村の閉塞状況から解放されようともがく青年の姿を全身で表現していただけに、残念だった。東京芸術劇場のベテラン音響スタッフ、石丸耕一が工夫を重ねたPA(音響補助)で支えたが、芝居小屋に比べ「響き過ぎる」コンサートホールに合わせた発声伝達の困難を、完全に克服するまでには至らなかった。
序曲からメロドラム、合唱、間奏曲…とアルフォンス・ドーデの戯曲に沿って千変万化するビゼーの音楽は旋律美、多彩なリズムの宝庫であり、管弦楽組曲版の魅力の原点を知った。一度はフランス語の原語で舞台演出&字幕付きの上演を観て見たい、との思いがつのる。
Comments