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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

急な代役、曲目変更できないリスクとは


ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」のソロにアンヌ・ケフェレックを迎え、音楽監督の上岡敏之が「交響曲第8番《グレイト》」を指揮し、シューベルトに軸を置いた2019/2020年シーズンを締めくくるはずだった新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会ルビー〈アフタヌーン コンサート シリーズ〉第32回(2020年7月17&18日、すみだトリフォニー大ホール)。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的拡大(パンデミック)に伴う渡航規制にかかり、パリジェンヌのケフェレック、カペルマイスター(楽長)と指揮科教授の活動の本拠をドイツに置く上岡とも欠場。田部京子(ピアノ)と太田弦(指揮)が代役を務めた。田部は6月末の東京交響楽団演奏会(飯守泰次郎指揮)でも外来ピアニストに代わり、ベートーヴェンの「協奏曲第3番」を弾き、目覚ましい成果を上げたばかり。太田は以前に新日本フィル演奏会を急病で降板、いまだ実演に接する機会がなかった若手の注目株ということで、それなりの期待をもって出かけた。


ベートーヴェンの「第1協奏曲」についてはルドルフ・ブッフビンダーの新譜(クリスティアン・ティーレマン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演=ドイツ・グラモフォン)のライナーノートを書くため6月末から7月初めにかけ、楽譜を広げながら耳にタコができるほど多くの音源を聴き比べたばかりだ。ケフェレックはフランス人だがアルフレート・ブレンデルの薫陶を受け、ベートーヴェンの生誕200年だった1970年の全ドイツ放送協会網(ARD)音楽コンクール(日本での通称=ミュンヘン国際音楽コンクール)に優勝。バロック時代のクラヴサン(チェンバロ)音楽から古典派、ロマン派、フランス近代音楽まで幅広いレパートリーを背景に、軽やかで優雅な味わいの演奏を繰り広げる。対する田部はベルリン留学組でARDコンクールでも第3位を獲得、ドイツ音楽に深く傾倒する。「第3番」で際立った内面への沈潜、緩徐楽章におけるメタフィジカル(形而上)な世界へのトランスなど、〝田部ワールド〟は「第1番」にも変わらず現れた。加えて第3楽章のエレガントな歌い回しには、メンデルスゾーンを得意とするピアニストの片鱗もあった。東響のときと同じく、マスクをつけて弾く姿に対して、早くも「タベノマスク」なるスラングが蔓延している。タクトを持たない太田の指揮は堅実で、サポート役の責任を十分に果たした。


だが「グレイト」は、急な代役を引き受けた若手(1994年生まれ)には荷が重過ぎたようだ。楽譜に書かれた音をしっかり鳴らす力量に疑いはない半面、それをフレーズに発展させ、リート(歌曲)作曲家にふさわしい歌のブレスをアーティキュレーション(分節法)として明確に打たなければ、音楽として全く機能しない。NHKの〝朝ドラ〟で蘇った昭和の大作曲家、古関裕而の出世作となった早稲田大学応援歌「紺碧の空」は「グレイト」冒頭のホルンの旋律に「大きな霊感を授かった」とされるが、今日の「グレイト」には優美な舞曲を伴った中欧音楽のフレージングではなく、「いちに!、いちに!」と拳を上下する2拍子応援歌のような感触があった。新日本フィルにとって有観客の定期公演再開に当たった7月2日、サントリーホールで下野竜也が指揮したベートーヴェンの「交響曲第6番《田園》」では、「音の流れや色を前面に出し、長く『日本的指揮』の欠点とされた『(スコアの)縦の線をきっちり合わせるチョッピー(ぶつ切り)演奏』ではない、横の流れを重視した音楽」(7月3日にアップした当HPのレビュー)が聴けた。弦の響きの美観が後退、鳴りも良くなかったのはホールの違いではなく、明らかに指揮者の力量の差なのだと思う。金管は今回の方が安定していたが、いくつかの木管ソロは前回と同じく、音色の洗練を欠いた。


シューベルトをテーマに掲げたシーズンの最後だけに、上岡が振るはずだった「MD Stück(エムデーステュック=音楽監督の作品)」の「グレイト」を外すわけにはいかない事情はよく理解できる。しかし、この曲にまだ習熟しているとは思えない若手に代役を委ね、有望株の評価に疑問をさしはさまざるを得ない結果を招いてしまうのは指揮者本人、聴衆の双方にとってのミスフォーチュンだ。「グレイト」を死守するなら中堅からベテランのゾーンで代役を探す、太田を光らせるなら交響曲を彼の勝負曲に変更し、「グレイト」は上岡の次回登場に委ねるといった柔軟な決定に至らなかったのは、返す返すも残念である。新型感染症が広げた傷口の大きさを再確認したともいえ、公演を再開した直後の新規感染者急増で暗い気分が広がるなか、1回ごとの開催には、桁外れの周到さが求められると思い知った。

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