ヨーロッパの音楽祭で意気投合、デュオを組んで7年になるという庄司紗矢香(ヴァイオリン)とヴィキングル・オラフソン(ピアノ)の日本ツアー最終日を2020年12月23日、サントリーホールで聴いた。アイスランド人のオラフソンはジョン・アダムズ指揮クリーヴランド管弦楽団との共演をキャンセルして庄司とのツアーを優先、東京で来日後2週間の待機を経て全国8か所を巡演したので、1か月を超える日本滞在。23日の深夜便利用でレイキャヴィクの自宅に戻り家族とクリスマスを過ごす計画はフライトの欠航、英国での新型コロナウイルス変異種発生などでご破算となり、ひとりぼっちのイヴを過ごすことになった。それでも庄司と日本の聴衆へのリスペクトは強まる一方らしく、どちらが日本人がわからなくなるほど深々と頭を下げ、前後左右の客席の拍手に応える姿は素晴らしかった。待機中に行ったインタビューは当ホームページに載せたので、再掲しておく:
プログラムは一見シンプル。
前半)
J・S・バッハ「ヴァイオリン・ソナタ第5番BWV.1018」
バルトーク「ヴァイオリン・ソナタ第1番」
後半)
プロコフィエフ「5つのメロディ」
ブラームス「ヴァイオリン・ソナタ第2番」
アンコール)
バルトーク「ルーマニア民族舞曲」
パラティス「シチリアーノ」
実際には前半が正味1時間あって、精神心理的にも構造的にも錯綜した音の連続で、極度の集中を必要とする。短い後半と名曲選りすぐりのアンコールで、聴き手の感情を解放した。庄司の絹糸を思わせる繊細で柔らかな音はどこまでも澄み渡り、千変万化する楽想の悉くを自分の音楽と一体化させ、作曲家自身の言葉あるいは思索の軌跡として驚異の解像度で再現していく。オラフソンはバッハで弱音主体に徹し、バルトークまでヴィルトゥオーゾ(名手)の卓越したテクニック、強靭な打鍵を「とっておいた」。座席数2,000のサントリーホールにあって極端な弱音の連続は正直、最初はきつかった。瞬間、かつて故ライナー・クスマウル(シュトゥットガルト音楽大学などで数多くの後進を育てた名教授で室内楽の達人だったが、クラウディオ・アバドの要請に基づき期間限定でベルリン・フィルのコンサートマスターも務めた)にインタビューしたときに教えられた、「耳の慣れ」の話を思い出した:
「アムステルダム・コンセルトヘボウの大ホールで、チェンバロよりさらに音量の小さいクラヴィコードとのデュオに臨んだことがありました。マーラーやブルックナーの大編成交響曲でもへこたれない会場ですから聴衆が最初戸惑い、ざわついたのは当然です。でも曲が進むにつれ耳の感度と集中度が高まり、みな細かな音のニュアンスを聴き分け、楽しんでいただくことができました。十分に準備して演奏に臨むなら、大ホールでの小音量は恐れるに値しません」
庄司&オラフソンのバッハに引き寄せられ、6曲のソナタ中でも特異な味わいを持つ「第5番」の世界を堪能するまでにも、時間はかからなかった。こうなれば彼らの術中にはまったも同然で、バルトークのさらに錯綜した音の風景に身を委ね、天界や自然界との対話に耳を傾けるのは容易だった。天啓を真っ直ぐパイプに通し、そのまま人間の肉声に変換する特殊能力の一点で、バッハとバルトークは最も近い作曲家だと確信してきた自分にとっても、特別に意味のある1時間だった。
魚と肉の間に箸休め、あるいはソルベ(シャーベット)のように挟まったプロコフィエフの小品集はエスニックな響き、温かな感触をたたえ、前半の〝死闘〟を共有した聴衆へのトランキライザー(精神安定剤)の効用も発揮した。続くブラームスにも一切の力みがなく、どこまでも優しく、じっくりと作曲家の心の襞(ひだ)に寄り添っていく。ヴァイオリン、ピアノのそれぞれがソロで前に出る場面、オブリガートで脇に回る場面の割り振りを完璧なまでに踏まえ、デュオの醍醐味を心ゆくまで味わわせてくれる。とりわけ第2楽章前半のアンダンテ・トランクイロの部分でみせた極限まで吟味された弱音の会話には、極寒の屋外から室内に戻り、暖炉にチラチラ燃える薪のオレンジ色と出くわしたような感触を覚え、背後にブラームス先生の秘めたる思い、思慮深い肉声を聴いた錯覚に襲われた。初めての体験だ。
アンコールの1曲目を弾く寸前、庄司に促されてオラフソンが客席に話しかけた:
「ドウモアリガトウゴザイマス。待機も含めて長い長い日本滞在でしたが、全公演を無事に終えることができました。メリー・クリスマス、お大事に!」
それぞれの作曲家の音楽を味わい尽くすとともに、演奏者個々の人柄と両者あるいは聴衆と三位一体の信頼関係を実感する稀有の室内楽演奏会。最高のクリスマスプレゼントだった。
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