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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

幸せな音楽に包まれるアンゲリッシュのベートーヴェン、協奏曲第4&5番


ニコラ・アンゲリッシュは苗字、パリ音楽院でチッコリーニ、ベロフ、ロリオらに師事した経歴などからフランス人と思われがちだが、1970年にアメリカ合衆国で生まれたピアニストである。10代でヨーロッパに渡って頭角を現し、旧EMI〜現ワーナーミュージックを中心にソロ、協奏曲(パーヴォ・ヤルヴィ指揮hr=フランクフルト=放送交響楽団とのブラームス2曲を含む)、ヴァイオリンのルノーとチェロのゴーティエのカピュソン兄弟らとの室内楽などおびただしい数のディスクをリリース、つねに高い評価を得てきた。私も何年か前、旧社屋時代の日経ホール「ミューズサロン」でリサイタルを聴き、すべてにバランスがとれた第1級のソリスト〜イェフィム・ブロンフマンよりはエマヌエル・アックスを想起させる〜との思いを強くした。オペラ歌手ではない、器楽の演奏家の容姿にも敏感なタイプの聴衆にとっては上に挙げた先輩2人と同じく「圏外」の存在だが、ピアノ音楽を心から愛する人々からは全面的な信頼をかち得ている。


ワーナーの新譜は今年(2018年)3月、パリのラ・セーヌ・ミュジカールで行われたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲」全曲(第1〜5番)演奏会から第4番、第5番「皇帝」を1枚に編集したもの。女性指揮者ロランス・エキルベイ率いるピリオド楽器アンサンブル、インスラ・オーケストラとの共演で、アンゲリッシュはベートーヴェンの同時代から約80年後、1892年とドビュッシーの時代に制作されたフランスのピアノ、プレイエルのアンティークを弾いている。ピリオド(作曲当時の仕様)のフォルテピアノでも最先端のモダン(現代)ピアノでもなく、中間の時代に位置する楽器を選択することで、初演当時の音色やアクションを完全に払拭するのを避けながら、現代のコンサートホールの規模に適した音量を確保するための措置だと思われるが、ディスクに収められた柔らかく克明な音を聴く限り、意図はかなりの確率で成功したといえる。何よりメタリック、メカニックな感触が最低限に抑えられ、木質系の暖かな響きがベートーヴェンのヒューマンな世界と一体化して広がる。


アンゲリッシュの独奏には第4番の最初の和音だけでもう、聴く者を強く惹きつける何かがあり、第5番の最後まで、一気に聴き続けてしまった。アーティキュレーションやフレージングなどで歴史的検証の成果をきっちり踏まえながら、アンゲリッシュに寄り添い、美しい音楽の会話を繰り広げるオーケストラと指揮者も、単なる伴奏以上の貢献を果たしている。何度も聴き返すうち、この2曲がなぜ、作曲後200年を経た今も人々に愛され、演奏され続けるのかが「頭」ではなく「心」のどこかでわかったような気がした。

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