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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

山根一仁と高関健&東京シティフィル、延期と社会的距離で獲得した一段の洗練


いつまで続くのかしら?

昨日(2020年8月28日)、近所の医院で血圧&脈拍を測定したら「111/77/66」。看護師さんが「あら、全部ゾロ目だわ!」と、不思議な反応を示した。本日(29日)、東京オペラシティコンサートホールの東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期演奏会のナンバリングも「第333回」。本来は4月11日、常任指揮者の高関健が指揮するはずだった定期の番号だが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大に伴って延期された。オリジナルの曲目はブラームス「ピアノ協奏曲第2番」(独奏=デジュ・ラーンキ)とR・シュトラウス「交響詩《ツァラトゥーストラはかく語りき》」。前者は外国人ソリスト来日が依然不可能、大編成の後者はソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の設定)に照らし不適切ということで、協奏曲は5月1日の第334回(秋山和慶指揮)でグラズノフを弾くはずだった山根一仁によるショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲」、R・シュトラウスは管、弦それぞれのメンバーに見せ場をつくる形で「13管楽器のためのセレナード」「メタモルフォーゼン〜23の独奏弦楽器のための習作」に、それぞれ差し替えた。冒頭にはコープランド「市民のためのファンファーレ」を置き、金管と打楽器の力量もアピール。同曲は読売日本交響楽団(読響)が有観客公演を再開した7月の演奏会で、原田慶太楼も指揮していたが、困難な時代を共有する客席との連帯を表明するには、もってこいの選曲かもしれない。


結果として、プログラムの洗練度はブラームスとR・シュトラウスの大作だけ2曲よりも高まったといえる。2015年の常任就任から5年、自身が教鞭をとる東京藝術大学音楽学部などから優秀な若手奏者をリクルートしながら世代交代とアンサンブルの精度向上を着実に実現してきた成果がコープランド、R・シュトラウスには、はっきりと示されていた。「メタモルフォーゼン」は「23」のほぼ倍の編成にして、後期ロマン派爛熟の響きを強調した。


山根の独奏をじっくりと聴くのは久しぶりだった。中学3年生だった2010年に第79回日本音楽コンクールで優勝した当時から「弾ける」「上手い」との定評はあった半面、個人的には、メカニックの側面が先行しているとの印象を拭うことができないでいた。だが、数年前に室内楽の演奏に接し、音楽の内面を真摯に究める視線の大きな進化を確信した。


現在はミュンヘン音楽演劇大学(プログラムには「国立」とあるが、第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国=旧西ドイツではヒトラーのナチス政権による強度の中央集権への反省から、教育と文化は完全に州へと分権、ミュンヘン音楽演劇大学も実際には「バイエルン州立」である。日本は東京一極集中の極端な中央集権で「国立」を〝格上〟と考える傾向があり、ドイツへの音楽留学生も「州立」や「市立」と書かず、戦前の「国立」まま表記するのはいささか、滑稽に思える)に在籍、ヴァイオリニストで指揮者のクリストフ・ポッペンに師事する。留学の成果は明らかで、内面に向けた目はさらに構造へと広がり、作曲家の感情や思索がどのような過程を経て一つの楽曲へと構築されていったのかを克明にたどり、起承転結をしっかりと踏まえた〝3D〟グレードの演奏で、長足の進歩を印象づけた。


山根が呈示した極めて明瞭な音像により、「死の舞踏」的な音型など、ショスタコーヴィチがいかに過去の様々な音楽様式に通じ、引用の才にたけていたのかも再確認できた。雑多な音素材の意味論をいったん骨抜きにして(Entsemantisierung=意味論の解体)、自身の音楽に再構築した先輩こそブラームス、R・シュトラウスだ。取り下げたブラームスも含め、作曲技法の共通性に伏線を張った高関のプログラミングの見事さにも、ほとほと感心した。

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