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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

小泉和裕&名古屋フィル、尾高忠明&東京都響をサントリーホールで2日続きで

更新日:2021年3月16日


2021年3月14日に音楽監督の小泉和裕(1949ー)が指揮する名古屋フィルハーモニー交響楽団東京特別公演、15日に尾高忠明(1947ー)が東京都交響楽団主催公演では28年ぶりの共演という都響スペシャル2021(3/15)を同じサントリーホールで聴いた。ともに70代前半、小泉はベルリン、尾高はウィーンに留学し、若い時点で世界に打って出たが、その後のキャリア、人生観、演奏様式は面白いほどに異なっている。岐阜県の飛騨古川に居を構え「半農半音」のライフスタイルを貫くために国外の仕事から撤退した小泉、BBCウェールズ交響楽団の首席指揮者(現在は桂冠指揮者)へ就いたのを機に英語圏でもキャリアを積み、エリザベス女王から大英勲章CBE、英国エルガー協会から日本人初のエルガー・メダルを授与されるなど世界規模の活躍を続ける尾高。2人のつくり出す音楽の味わいは、指揮したオーケストラの違い以上の開きを実感させた。


小泉と名古屋フィルはブラームスの「交響曲第4番」を前半、「同第1番」を後半に演奏した。首席客演コンサートマスターの荒井英治がリード、オーボエのトップには都響首席の広田智之を客演に招くなど、万全の態勢で臨んだ。1973年のカラヤン国際指揮者コンクールに優勝、ベルリン・フィルを指揮してベルリン・デビューを飾った小泉は、もはや世界でも稀になった〝カラヤン流〟指揮法の忠実な継承者だ。両手を腰から上のゾーンで大きく動かし、主旋律から対旋律、内声に至るまでを豊かに鳴らし、大きな音量で再現する。最弱音を極限まで絞る代わり、すべての音がよく聴こえることを優先するので竹を割ったような爽快感もある。中世・ルネサンス音楽から同時代までの音楽語法に通じ、コラール(讃美歌)の影響も色濃いブラームスの作曲技法の解析は深追いせず、ロマン派音楽の濃厚な響きの部分に焦点を当てる。もはや現代では珍しい解釈といえるが、小泉は自身の信じる音楽に、愚直なまでに徹する。日本人が長く親しんできたスタイルを守り、全国各地のオーケストラから最も手際良く、豊かなサウンドを引き出す指揮者が1人くらいいても、いいと思う。名古屋フィルとの息もぴったりと合っていたが、管楽器のソロにはまだ、改善の余地がある。


尾高と都響は前半に武満徹の「系図(ファミリー・トゥリー)ー若い人たちのための音楽詩ー」(語り=田幡妃菜、アコーディオン=大田智美)、後半にエルガーの「交響曲第1番」と、いかにも集客に苦労しそうな(実際、最近の都響公演では少なめだった)2曲を並べてまでも、久しぶりの本格共演に賭けた。「系図」では2005年生まれの女優、田幡が台本を暗記し、抑制の中に様々な情感・光景を想起させる優れた語りを披露した。委嘱&世界初演者のレナード・スラトキン、日本初演者の小澤征爾をはじめ、多くの指揮者で聴いてきた武満晩年(1992年)の作品だが、尾高は「波の盆」や「3つの映画音楽」など、武満の映像音楽の側からアプローチしたかのようにシンプルで、優しく心に響く音の個性を発揮した。


都響側の強い希望で決まったエルガーは、尾高の名刺代わりといえる十八番。いつも不思議に思うのは、「正指揮者」の称号を持つNHK交響楽団を指揮する際の尾高には、昭和の残り香や斉藤指揮法の刷り込みが全面的に立ち上るのに対し、他のオーケストラを振ると格段にモダンな指揮者へ変身するという二面性だ。都響とのエルガーでも隅々にまで血を通わせつつシャープな棒さばきで緊張を保ち、長大な交響曲を一気に、白熱とともに聴かせた。ソロ・コンサートマスター矢部達哉がリードするアンサンブルはベストフォームで、管楽器の名人芸もふんだんに味わうことができた。このキレキレの尾高と都響の音楽、私は1979年8月15日の東京文化会館大ホール、都響の第122回ファミリーコンサートで1度、体験した記憶がある。モーツァルト「ディヴェルティメントK.136」、山下和仁を独奏に迎えたカステルヌオーヴォ=テデスコ「ギター協奏曲」とショスタコーヴィチ「交響曲第5番」。あのショスタコーヴィチの鮮烈な音の立ち上がり、揺るぎないテンポ設定は今も良く覚えている。尾高は今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の曽孫に当たり、テーマ音楽を指揮した。あのショスタコーヴィチや今夜のエルガーにはどこかしら、何かを「衝く」ような感触があった……などと書くとすぐに、「こじつけだ」と言われそうだけど。

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