小林資典(こばやし・もとのり=1974ー)は2000年以降、ドイツの劇場でコレペティトゥーア(指揮者の要素を備えた練習ピアニスト)、カペルマイスター(楽長)、GMD(音楽総監督)…と、オペラ指揮者の伝統的な階段を着実に踏み上げてきた。2000年にライン・ドイツ・オペラのデュッセルドルフ歌劇場にコレぺで採用され、2008年にドルトムント歌劇場に指揮者として移籍、2013年からGMD代理と第1カペルマイスターを兼務する。テレワークのインタビューで聞いた詳しい背景は今年6月、雑誌「ぶらあぼ」に掲載した:
東京藝術大学音楽学部在学中から、サントリーホールの「ホールオペラ®︎」などで副指揮者を務め、2019年にはデュッセルドルフの劇場バレエ団「バレエ・アム・ライン」の日本公演「白鳥の湖」のピットに入り、Bunkamuraオーチャードホールでシアター・オーケストラ東京を2回指揮した。日本のオーケストラとの演奏会は2018年に1度、ドルトムントのGMDガブリエル・フェルツの推薦で大阪交響楽団を指揮しただけ。以後の日程はすべて、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大で中止か延期に追い込まれ、2021年8月、読売日本交響楽団(読響)との共演でようやく「東日本の演奏会デビュー」が実現した。
お披露目の舞台は読響が毎年夏、若手ソリスト3人を抜擢する「三大協奏曲」(8月14日)、《未完成》《運命》《新世界から》の「三大交響曲」(8月18日)の2公演からなる「読響サマーフェスティバル2021」で、いずれも東京芸術劇場コンサートホール。コンサートマスターは2012ー2021年にドイツの3つのオーケストラでコンマスを歴任、今年4月に読響へ入った林悠介(1984ー)が務め、万全の態勢を整えた。協奏曲のソリストはメンデルスゾーンが石上真由子(ヴァイオリン=1991ー)、ドヴォルザークが北村陽(チェロ=2004ー)、チャイコフスキー(第1番)がユーチューバー「Cateen(かてぃん)」こと角野隼斗(ピアノ=1995ー)と超フレッシュ。「かてぃん」人気によりチケットは短期間で完売、客席は「池袋の土曜午後」には珍しく、若い女性の熱気であふれかえった。
新しいお客様は目当ての角野だけでなく石上、北村の演奏にも熱狂的に反応、終演後のSNSでは小林の精妙で果敢な指揮の美点を適確に指摘するなど、良い耳の持ち主でもあった。小林は管弦楽だけの作品がないにもかかわらず、日本国内で活動する同世代の指揮者たちとは明らかに異なる趣の振り方、アプローチ、音の感覚をはっきりと示した。長い指揮棒を大きく振るだけでなく、スリムな長身全体を駆使したボディ・ランゲージで場面場面の表情、和声、ソロの強調などを際立たせていく。あえて陳腐な形容をすれば「劇場的」「オペラ風」と言わざるを得ない音をスコアから引き出し、立ち上げ、プリマドンナ=ソロ楽器との立体的、ライヴ感覚満点のドラマを繰り広げる。メンデルスゾーンの第1楽章カデンツァに入る直前の追い込み、第2楽章に入ってすぐの弦楽合奏のさざめき感、あるいはチャイコフスキーの第2楽章中間部センプリチェの旋律の弾ませ方など、初めて聴く音感が随所にあった。インタビューでもドヴォルザーク、チャイコフスキーなどスラヴ系音楽への親和(アフィニティ)を語ったが、「ドヴォコン」の激しい情熱の噴出はその言葉を裏付けて余りあった。
ソリストはそれぞれ、強い個性を備えていた。頭脳派の石上は甘くロマンティックな世界に背を向け、ひたすらメンデルスゾーンの内面に沈む苦難の道をあえて進む。大ホールのガラ的コンサートでは不利な選択だし、他2人に比べれば音量も表出力も控え目に過ぎるかと思ったのは、ホールで同時体験をしていた間だけ。1週間近くを経た今、石上の〝濃い〟思弁の一つ一つが恐ろしい解像度で反芻され「やられた!」と思いつつある。まだ高校2年生の北村のひたすら直球、ドヴォルザークの世界に浸り切ってのチェロは技と音量、スケールのいずれにも不足なく、楽曲の素晴らしさを堪能させた。「自分が17歳の時を思うと、恥ずかしい」と周囲の同業者に漏らしたら、「特別な才能と自分を比べてはいけません」と大笑いされた。そして角野。過密日程のなかショパン国際コンクール本選準備にも追われる日々にチャイコフスキーを初めて弾くチャレンジも引き受け、1から勉強しての本番だった。東大工学部大学院を出てパリの音響音楽研究所(IRCAM)で音楽情報処理も学んだ頭脳は、フレーズや和音ごとの音響・音色を徹底的に解析、同じ音型の分散和音の反復でも決して同じ音を出さない「音色フェチ」ぶりを発揮した。ピティナ特級グランプリ受賞のテクニックは音量の爆発も十分、緩急を自在にとりながら即興のスリルを存分に味わわせてくれた。内面性や抑制の不足を指摘することは容易だが、角野には「まだ必要ない」と思わせる強い説得力があり、ネットでの経験に基づくパーソナルな語りかけの魅力を何よりも評価したい。
「三大交響曲」。開演時刻を間違え(19時と思ったら18時30分だった!)、シューベルト「交響曲第7番《未完成》」の第1楽章のみロビーのテレビ画像で接した。驚くべきことに「三大協奏曲」で薄々感じた「小林にしか出せない読響の音」の特徴がモニタースピーカーの制約された音響を介し、恐ろしいほど明瞭に峻別できる。明快なリードでオーケストラをとことん鳴らし首席奏者のソロも前面に引き出すが、アンサンブルの芯は引き締まり、低音の重心の上に弦セクションが鮮明なレイヤー(階層)を積み上げる。とりわけヴィオラ、チェロが語りかける内声のニュアンスは豊かで多彩、思わず聴き惚れる。それでいて全体の色調がメタリックに行かず落ち着いた木質系を保っているのが絶妙で、カペルマイスター流儀の忠実な継承者たる側面を際立たせる。第2楽章から客席で聴くと《未完成》だけが指揮棒「なし」、他は「あり」だった。シューベルトの繊細なニュアンスの移ろいは完全に「大きな室内楽」の自発性に委ね、ベートーヴェンとドヴォルザークで〝攻め〟の姿勢に転じた。
《運命》では振り始める寸前、全身をくねらせ「行くぞ!」と立ち向かう意思表示の強烈さがすでに、名演を予告する。あえてピリオド奏法を強調する必要のない世代と現場に属しているが、ロマンティックで甘い要素をとことん排し、ぐいぐい核心に迫る気迫は現代の最先端に位置しているともいえ、伝統の再現に甘んじない、もう1つの側面を強く感じさせた。一気呵成、怒涛の流れのようにみせながら、随所で和声を際立たせ即興的な瞬間の弱音(スビトピアノ)を忍ばせる。楽譜の情報を解凍、音に立ち上げる造型(Gestaltung=ゲシュタルトゥング)だけにとどまらず、現代のホール空間と2021年8月の日本人に最適の音像へ再創造する手際こそ、小林が劇場で積み上げた音のドラマの方法論なのだと理解する。213年前のベートーヴェンの革新が、2021年の「旬」と直結した稀有の音楽の時間だった。
《新世界から》。アマチュア・オーケストラでクラリネットを吹きながら指揮者を目指した〝小林少年〟の憧れが、そのまま熟練のカペルマイスターと優れたオーケストラの音に結びつく「夢」の実現を思わせる。ベートーヴェンでの闘志はドヴォルザークへの愛に変わり、ノスタルジックな味わいが濃く出た。第2楽章のイングリッシュホルン独奏、「家路」の名旋律に続く展開の美しさには目をみはったし、第3楽章中間部の1つ目のトリオにおけるチェコ風舞曲の弾ませ方には、メンデルスゾーンやチャイコフスキーの協奏曲の中間楽章と同じく心のときめきを覚えた。第4楽章の追い込みも凄まじかったが、最後の音の余韻は非常に長くとり、終始一貫、コントロール力を失わなかった。客席の興奮も相当だったので仕方ないとはいえ、小林のタクトがまだ宙にとどまっているタイミングでの拍手は、やはり「フライング」の謗(そしり)を免れない。どんなに熱く音楽を燃焼させても、決して冷静なコントロールを失わないプロ中のプロのマエストロに対しては、とりわけ不似合いな着地!
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