2020年2月末から6月半まで世界のコンサートホール、オペラハウスなどが一斉に閉まり、公演を中止していたのが嘘だったかのように9月以降、公演数が急増している。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が終息したわけではなく、対策をあれこれ講じ「走りながら考える」形で活動を再開しない限り、経営状態から演奏水準まで、あらゆるコンディションの維持が難しくなってきた状況の反映とみた方が適切だろう。何がすごいかといえば、国をまたいでの移動が医学的隔離期間だけでなく、芸能ビザ発給停止など現実の興行面でも困難で外国人演奏家の来日がストップしたまま、日本人演奏家だけでこれだけの数と質の本番を維持している事実である。10月2日(金)から4日(日)まで3日間の昼夜、あちこちのホールをはしごして聴いた6公演のうち、5公演のレビューを書くことにする。
小山実稚恵ピアノシリーズ「ベートーヴェン、そして…」第3回「知情意の奇跡」
ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第30番」
J・S・バッハ「ゴルトベルク変奏曲」
(2020年10月2日、Bunkamuraオーチャードホール)
オーチャードホール主催公演の再開初日。小山は「20年ほど前、アリアで始まりアリアに回帰して終わるという共通点を持つ2曲を組み合わせ、1つのリサイタルで弾いてみようとのアイデアが浮かび、ずうっと温めてきました」と、選曲の背景を語った。オーチャードホールで長期のシリーズを積み重ね、音響も楽器の持ち味も知り尽くした小山にして再開最初の曲、ベートーヴェンの作品109ではいく分、本番のテンションを探るかのような慎重さを感じさせないでもなかったが、バッハではエンジンが全開した。
「ゴルトベルク変奏曲」はすでに2017年2月、軽井沢大賀ホールでのセッション録音盤(ソニーミュージック)が存在しており、十分弾きこんだレパートリーといえる。早めのテンポで颯爽と進み、変奏と変奏の間にも切れ目をほとんど置かない。もともと「横」方向のレガート感よりも「縦」方向のダイナミックな打鍵を基本とするピアニズムの持ち主なので歯切れはよく、アーティキュレーション(音楽上の句読点、文節法)の明確さが一貫して保たれる。左手の堅固な支えの上で踊る右手の音色のチャーミングさにも度々、耳を奪われた。ピアニズムの頂点を第29変奏で極めた後は、さすがに一呼吸置き、第30変奏「クォドリベト」で日常の光景を取り戻すと、再び祈りの世界=冒頭のアリアに回帰した。演奏設計(起承転結)の見事さには感服、最近の小山の演奏でも出色の出来栄えだったと思う。
「やまと極上の響シリーズ〜尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団」
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」ピアノ=清水和音
ソリスト・アンコール:リスト「 《巡礼の年》第2年《イタリア》から 《ペトラルカのソネット第104番》」
ドヴォルザーク「交響曲第8番」
アンコール:グリーグ 「《2つの悲しき旋律》より《過ぎし春》」
(2020年10月3日、大和市文化創造拠点シリウス メインホール)
2年前にMC&通訳で出演した時は東海道線と相鉄線を乗り継ぎ「遠い」と思ったが、今回はりんかい線で大崎に出てJRに乗り入れた相鉄線を利用、所要時間が20分以上縮まった。東京フィル公演は当初、首席指揮者のアンドレア・バッティストーニがベルリオーズの「幻想交響曲」(前半の協奏曲、ソリストは同じ)を振る予定だったが、まだ来日がかなわず桂冠指揮者の尾高のドヴォルザークに替わった。
私は1983年9月29ー30日、埼玉県の新座市民会館で常任指揮者時代の尾高が東京フィルとカメラータ・トウキョウに録音したドヴォルザークの同じ交響曲を初出LP盤(CMT-4006)で持っている。35歳と72歳の尾高自身、さらに東京フィルをはじめとする日本のオーケストラの過去37年間の飛躍的な成長&成熟は今さら説明する必要もないだろう。尾高が「いつも第3楽章のコーダ(終結部)が近づくと、『今日は上手く吹いてください』と祈るような気持ちになっていた」という第4楽章冒頭のトランペットのファンファーレも、フルートの長いソロも「全く危なげない」以上の余裕で名人芸を披露する。尾高も持ち前の切れ味よく、リズムが弾む指揮に付随する「血肉」の量が格段に増し、東京フィルから熱狂的な響きを引き出していく。「東名高速を運転していて目に入る大和市の広告、『大和は70歳以上も高齢者扱いをしません』て素晴らしいですね」と行って親指を上げ、振り出したアンコール曲は「過ぎし春」。しみじみした曲のヒントをジョークに託し、座布団5枚!
清水も前日の小山も私と同世代(清水が2歳、小山が1歳それぞれ下だけど、まあ誤差の範囲内ということで…)に属し、彼らが国際コンクールで華々しい成績をあげ、そろってCBSソニー(現ソニーミュージック)からディスクを出していた時期からほぼ40年、ずうっと聴き続けてきたピアニストだ。コンクールの審査をご一緒したこともあり、音楽に対する考え方や情熱をじかに聞く機会を多く授かってきた。ラフマニノフの第2協奏曲はソニー時代の初期にマイケル・ティルスン=トーマス指揮ロンドン交響楽団と録音(チャイコフスキーの第1番とカップリング)、2011年のデビュー30周年には第1−4番と「パガニーニの主題による変奏曲」の5曲を1日で弾く快挙も達成するなど、得意中の得意の作品だ。隅々まで吟味された打鍵と安定した音量、「すべて、あるべきところに、あるべきものがある」的な設計の揺るぎなさ、オーケストラと一体にたたみかけたり、クライマックスへ向かい疾走する場面でもゆとりを失わず、〝合わせ〟の難所でも尾高との呼吸はピタリと合い続ける。
昭和の最終コーナーから平成にかけての日本の音楽界で獅子奮迅の活躍を続け、今も現役一線の活躍を続けながら、教育分野にも足跡を刻むーーそんな素晴らしい音楽家たちと時代、時間を共有できた聴衆の私たちも「かなり幸せなのではないか」と感謝した昼下がり。他のお客様も同じ思いだったのか、非常に整然としたマナーのなか、温かい雰囲気が広がった。
荒井結チェロ・リサイタル「心に響く音vol.2」
J・S・バッハ「無伴奏チェロ組曲第1番」
ベートーヴェン「チェロ・ソナタ第5番」
ラフマニノフ「チェロ・ソナタ」
アンコール:ラフマニノフ「《チェロとピアノのための2つの小品》作品2から第1番《前奏曲》」
ピアノ=鈴木慎崇
(2020年10月3日、hakujuホール)
昨年5月25日、虎ノ門のJTアートホールで行った東京での初リサイタルの素晴らしさは、すでに当ホームページに書いた:
第2回もピアニストは鈴木。ラフマニノフのソナタをhakujuで聴くのは今年6月のホール再開以降、早くも3度目だ。バッハのプレリュードを弾き初めてすぐ、「ああ、あの素敵な音楽だ」と1年あまり前の感動が戻ってきた。「私の演奏を聴いて!」の押しつけがましさも「私の勝負曲です」みたいなエゴも一切なく、スーッと楽曲の懐に入っていった後はひたすら作曲家、楽曲との親密な〝会話〟を繰り広げていく。バッハがチェロに託した様々な舞曲のリズム、18世紀音楽を躍動させる鍵のアーティキュレーション、確実なテクニックに裏打ちされたフレージングのすべてが、ごく自然な佇まいの中で再現された。鈴木の堅固さと柔軟性を兼ね備えたピアノが加わったベートーヴェンでは、ソロとして前面に張り出す部分と、オブリガートとしてピアノに「かぶる」部分との弾き分けが実に鮮やかで、確かな様式感を示した。
「このデュオなら、ラフマニノフはかなりの聴きものになるね」。休憩時間、何人かの知人と交わした会話は当然、現実となった。かなりの気力体力を必要とする大曲にもかかわらず、荒井は冷静なペース配分の上にじっくり、抒情的な歌を紡ぐ。パワーと細やかさの兼備自体が、荒井のアイデンティティーの象徴のようにも思えた。全身に「嫌なもの」がまとわりつく演奏というのが無いわけではないが、荒井はその真逆、聴いた後に全身を浄化されたような気分が訪れる。願わくはもっと良い楽器、弓をどなたか、貸与してはくれませんか?
「園田高弘Memorial Series in 2020 ロマン派撰集Ⅱ」
シューマン「森の情景」=平井千絵
ブラームス「7つの幻想曲集作品116」=髙橋望
フランク「前奏曲、コラールとフーガ」=島田彩乃
シューベルト「アレグロ《人生の嵐》」=ドゥオール(藤井隆史&白水芳枝)
ショパン「スケルツォ第1&2番」=松本和將
リスト「ハンガリー狂詩曲第12番」=大崎結真
(2020年10月4日、東京文化会館小ホール)
昭和の大ピアニスト、園田高弘(1928ー2004)の薫陶を受け、今や中堅世代の指導者に成長したピアニストたちが毎年10月の命日(7日)前後に集まり、剛腕プロデューサーでもある春子夫人と選曲に知恵を絞りながら、腕を競い合う物凄いガラに今年も出かけた。それぞれ20分程度の持ち時間の一本勝負、全力投球するしかない。しかも、この顔ぶれ! ロマン派ピアノ音楽の諸相を多彩なピアニズム、音色の違いとともに楽しみ、満喫した。
ふだんフォルテピアノの平井が譜面を立て、1音1音慈しむように弾くシューマン。モダンピアノ(ハンブルク・スタインウェー)の鍵盤の弾力には苦吟したそうだが、ピリオド楽器で鍛えた微細な表現力に徹して無理をせず、第7曲「予言の鳥」の神秘な世界を見事に引き出した。最近は「バッハ演奏家」のイメージが強い髙橋だが、ドレスデンでペーター・レーゼル教授に師事したきっかけはブラームスがつくった。女性2人にはさまれてテンションが上がり過ぎたか、第1番「奇想曲」冒頭の暴走テンポには不安を覚えたものの、続く間奏曲で落ち着きを取り戻した。地味ながら年々、しっかりと存在感を増している。島田のフランクはフランス、ドイツの両国で音楽を究めた体験が如実に反映され、個々の音すべてに意味のある深い音楽を聴かせた。
今回のドゥオールは1台ピアノ4手連弾のシューベルト。全く危なげなく、作品の味わいを伝えた。松本のショパンは日本音楽コンクールで彗星のように現れて優勝した10代終わりころを彷彿とさせる覇気に満ち、ロックの熱狂とF-1レースのスリルがショパンと握手したかのような、独特の感触を届けてくれた。1979年生まれ。「不惑」の暴走が楽しみだ。トリの大崎がリストを弾きだした瞬間、他の5組6人とは全く異なる音色と感情の海に投げ込まれた気がした。コロナ禍の不安心理もあったのか、9月3日に予定していたリサイタルを直前にキャンセル、心配していたのだが、これだけ激しい感受性と身を切るような音楽の持ち主であれば「常人とは全く違う世界を見る瞬間もあるのだろうな」と思い、キャンセルをむしろ「当然の帰結」みたいに振り返った。それほど、凄い「ハンガリー狂詩曲」だった。
「柴田智子の自由で素敵なコンサートVol.2 柴田智子ソプラノが歌い、語る《かけがえのないもの》」with 内門卓也(ピアノ)
(2020年10月4日、豊洲シビックセンターホール)
プログラムは右に掲げた画像の通り。日本からアメリカ合衆国に飛び出し、30歳を過ぎてからさらにヨーロッパへ向かい、ミラノで発声を鍛え直したソプラノ歌手の人生そのものを反映した選曲だった。豊洲備え付けのピアノはイタリアの新しい作り手、ファツィオリで華やかな音色に特徴があり、コンクール審査の経験などを通じ、歌との相性は抜群だと思ってきた(逆にブラームスの室内楽だと、かなりのコントロールを要する)。柴田との共演歴も長いコンポーザー&ピアニスト、内門の目指す音楽との相性も良いように見受けられた。
古今東西の名唱が耳にこびりついているベッリーニのオペラ「ノルマ」題名役のアリア「清らかな女神よ」あたりでは、さすがに全曲舞台上演を積み重ねたわけではない歌い手の限界も感じさせた。それでも「聴かせて」しまうのは、柴田の1曲1曲にこめる強い思いがあっての勝利だろう。切々と、「何か」が伝わってくるのだ。ただ、気持ちすべてが客席に正直に伝わる長所は時に、内側のテンションまでさらけ出す短所にもなる。「久しぶりに歌うベルカント」への緊張が声帯まで及んだだけにとどまらず、せっかく美しく装丁した進行台本と内門懸命の誘導にもかかわらず話の行方がおかしくなり、予定時間を大幅にオーバーする結果を招く。開演前のアナウンスで実に細かく告げられた進行予定時刻とは異なる展開にハラハラするのも、柴田のリサイタルでは「おなじみの光景だったな」と思い出し、苦笑い。
いつも会場へ足を運ぶのは、柴田でしか聴けないアメリカの素晴らしい音楽ーー今回はカーライル・フロイドとネッド・ローレムに惹かれてだ。ローレムでは音楽ジャーナリストの林田直樹さんによる日本語訳の朗読、ピアノ曲のソロをはさみながら3つの歌曲を披露した。内門との入念なリハーサルもうかがわせる完成度で、日本には馴染みのないローレムをすこぶる魅力的に輝かせるミッションを真正面から達成した。私も何年か前、メゾソプラノのスーザン・グレアムが歌うローレム歌曲集のCD(ワーナー)を柴田に貸し、リサイタルでとり上げるようお願いした記憶があるので、夢がかなったとの思いに浸った。フロイドのオペラ「スザンナ」のアリア「山の木々たち」はケント・ナガノ指揮の全曲盤、ルネ・フレミングのアリア集で聴いた覚えがあるが、実演で聴くのは初めて。切々と、優れた歌唱だった。
中島みゆきの「糸」、中村八大の「上を向いて歩こう」の編曲は、ボストンのバークリー音楽院に留学中の新進ミュージシャンで作曲家の岩城直也。まだ中学生のころ、あるオーディションの審査で知り合ったが、あれよあれよと育ち、急激に頭角を現した。柴田智子リサイタルという全く異なるプラットフォームでの〝再会〟が唐突に実現、優れたアレンジを聴けたのは幸いだった。アンコールの自作「いのちの歌」も含め、日本語の歌に強い感情を載せて歌う場面の柴田もまた、独特の輝きを放って素敵だ。
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