2022年5月21日にニューヨーク8泊のツアー強行から帰国して以降、23日から30日までの8日間に女性ピアニスト6人の演奏会を立て続けに聴いた。滅多にない偶然の産物である。
1)アンジェラ・ヒューイット「バッハ・オデッセイ」Vol.11(5月23日、紀尾井ホール)
J・S・バッハ「4つのデュエットBWV.802-805」「18の小前奏曲(BWV924/930、925/926、927/928、933/934、935/936、937/938、939/940、941/942、943/999)」「幻想曲とフーガBWV944」「フランス風序曲BWV831」「イタリア協奏曲BWV 971」
2017年から続けてきた全12回の「バッハ・オデッセイ」のbefore the last。最終回Vol.12の「フーガの技法」(25日)を聴けなかったのは残念だったが、欧米ではすでに完走したシリーズ。日本ではコロナ禍で中断、結果として「世界での総仕上げ」の気迫を感じさせた。イタリアのモダンピアノ「ファツィオリ」をほぼノンペダルで弾き、多彩な音色を駆使しながら、没入度の高い演奏を繰り広げた。
正直いって、元から好きなピアニストではなかった。2019年の来日時に「音楽の友」誌の表紙インタビューを請け負い、じっくりと話したのを機に実演通いを再開すると、以前より遥かにスケールの大きな演奏家が存在した。同い年の偶然もあり、今や気になる存在だ。
バッハ自身が弾いた鍵盤楽器はモダンピアノではなくチェンバロ、クラヴィコード、オルガンなどだが、後のベートーヴェンと同じく、当時最先端のコンポーザー&プレーヤーとして楽器の進歩を確信し、作曲を続けた。ことさら自己を押し出すことなく、バッハ創作の軌跡をひたすらファツィオリで辿るヒューイットの献身は次第に再現芸術の限界を超え、作曲家と奇跡の一体化をもたらす。もし今、バッハが生きていてファツィオリを弾いたら、多彩な音色の駆使に夢中となったのではないか?ーーそんな錯覚を抱かせる一体感を味わった。アンコールの1曲「主よ、人の望みの喜びよ」の中間部で突如、決然とした響きが現れた瞬間、ヒューイットが今の世界情勢に対する自分の思いを激しく吐露したような気がした。
2)NHK交響楽団第1958回定期演奏会B初日(25日、サントリーホール)
指揮=ファビオ・ルイージ、ピアノ=小菅優※、コンサートマスター=篠崎史紀(MARO)
メンデルスゾーン「序曲《静かな海と楽しい航海》」、ラヴェル「ピアノ協奏曲」※、ソリスト・アンコール:メシアン「《前奏曲集》第1曲《鳩》」、R=コルサコフ「交響組曲《シェエラザード》」
次期首席指揮者ルイージの指揮が注目の的だったが、小菅も十分の存在感を示した。ルイージ自体、最初はアルド・チッコリーニらに学び、ピアニストを目指していた。ラヴェルの「両手」はかなり再現の難しい作品で、なかなか名演奏に遭遇しない。ピアニストが良くても、指揮者がモタモタしていたり、逆のケースだったり。小菅はライアン・ウィグルワース指揮BBC交響楽団とのセッション録音盤をリリースしたばかりで、解釈の基盤を十分に固めての登場だったが、両端(第1&第3楽章)ではルイージの指向する音楽と若干の齟齬を感じさせた。文句なしに引き込まれ、深く透明な音の世界に沈潜できたのは第2楽章。本当に夢見るような音楽だった。幸いにもアンコールのメシアンで、その感覚に再び浸れた。
3)花房晴美「室内楽シリーズ《パリ・音楽のアトリエ》第21集《はじまりとひろがり》」(27日、東京文化会館小ホール)
ヴァイオリン=徳永二男※、ヴィオラ=鈴木康浩※、チェロ=向山佳絵子※
J・S・バッハ(ブゾーニ編曲)「トッカータ、アダージョとフーガBWV564よりアダージョ」、モーツァルト「ロンドK485」「ピア四重奏曲第1番K478」※、フォーレ「ピアノ四重奏曲第1番」※、ピアニスト・アンコール:モーツァルト「トルコ行進曲」
2010年から原則年2回、春と秋に同じホールで続けてきたシリーズの第21回。花房がモーツァルトの四重奏曲を公開の場で弾くのは、おそらく初めてだと思われる。最初のソロ2曲、バッハ=ブゾーニとモーツァルトは「ベテラン・ピアニストの練れた解釈」といった生半可な形容では済まされない凄み、スタインウェイが華麗に鳴り切った爽快感を満喫した。
弦のゲスト3人を交えた四重奏曲2つでは、フォーレが圧倒的に良かった。花房のピアノはすべてに配慮が行き届き、どちらもソリストの華と室内楽の喜びを兼ね備えていたが、弦3人のアンサンブルというか指向性、音程感がモーツァルトではヴァイオリン対その他の2極に分かれてしまい、残念だった。シンプルな作品ほど、緻密な演奏であってほしい。
アンコール「トルコ行進曲」のゴージャス、ギャラント。こんな演奏が可能なのかと驚く。
4)深沢亮子「ピアノリサイタル」(28日、東京文化会館小ホール)
J・S・バッハ「平均率クラヴィーア曲集第1巻から第1番BWV846」「第2巻から第2番BWV871」、ベートーヴェン「6つのバガテル(作品126)」、助川敏弥「ソナチネ《青の詩》」、シューベルト「即興曲D935(作品142)」
深沢は1938年6月22日生まれ。15歳で日本音楽コンクールに優勝、17歳でウィーン国立音楽大学に留学し、1961年にはジュネーヴ国際音楽コンクール・ピアノ部門で1位なしの2位を得たベテラン、キャリアは70年に迫る。久しぶりのソロ・リサイタルに接し、完全な解脱&脱力の境地に至りながらも音楽が瑞々しく、自身の解釈を適確に伝えるメカニックにはいささかの衰えもない点に感服した。
とりわけ、シューベルトの複雑に絡み合う音楽の諸相を深い愛情、共感とともに丹念に掘り起こし、人肌の温もりを失わない音楽として生き生きと再現した「即興曲」は素晴らしい。ウィーンの空気を全身で吸収したピアニストの真価はアンコールの中の1曲、半日前に花房も同じホールで弾いた「トルコ行進曲」にも、くっきりと現れていた。さらにショパンの「ワルツ第2番」(華麗なる円舞曲)でみせた切れのいい技、華麗な佇まいは見事で、まだまだ「この先」の可能性に満ちた現役ピアニストの凄みを見せつけた。
5)仲道郁代「ピアノ・リサイタル《知の泉》」(29日、サントリーホール)
ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第17番《テンペスト》」、ショパン「バラード第1番」、リスト「ダンテを読んで」、ムソルグスキー「組曲《展覧会の絵》」
アンコール:ラフマニノフ「前奏曲作品3の2《鐘》」、ショパン「夜想曲嬰ハ短調(遺作)」、ドビュッシー「前奏曲集第2巻〜第5曲《ヒース》」
音楽評論家やジャーナリストを集めた事前のトークセッションで仲道が明かした今回のテーマは「人間の業(ごう)と再生」だった。とりわけ《展覧会の絵》に潜む絶望と死、究極の祈りに強く惹かれている様子だった。ヤマハの「CF-X」フルコンサートグランド最新モデルを持ち込んでの本番。ベートーヴェンの《テンペスト》を慈しむかのように弾いた直後、ショパンの「バラード第1番」の主題が熱を帯びてきたところで〝事件〟は起きた。
まず、私のTwitter:
次いで、仲道自身の説明(一部編集):「ショパンの心の旅を皆様追ってお聴き頂くことができなかったことは残念で、アンコールで弾こうかなとも思ったのですが、それを引きずりながらの《展覧会の絵》も、お客様にはしんどいかなあと。一応『終演時間が延びても大丈夫ですか?』とか確認して了解を得て、あのタイミングになりました」
当世風には「神対応」。長く一線で活躍してきた演奏経験が最大限プラスに働いた。ムソルグスキーの最終曲「キエフ(キーウ)の大きな門」で大聖堂の鐘が鳴り響いた直後にラフマニノフの「鐘」を重ね、ショパンでしんみりとした後、ドビュッシーの自然描写で平衡感覚を回復するアンコール設計に至るまで、熟練したプロの仕事ぶりだった。2018年から10年計画で続ける春のリサイタル・シリーズを通じ、仲道は過去の実績に安住することなく大胆に奏法を変えながら、作品に対する自身の思索の軌跡を率直に音として伝える術に磨きをかけている。毎年が驚きの連続といえ、今年の場合、アクシデントを除けば「ダンテを読んで」と「展覧会の絵」の鋭い読み、切れ味を増した技巧に、とりわけ深い感銘を受けた。
6)アリス=紗良・オット「Echoes Of Life」(30日、サントリーホール)
ショパン「24の前奏曲」+「7つのインタールード=間奏曲(F・トリスターノ/G・リゲティ/N・ロータ/C・ゴンザレス/武満徹/A・ペルト/A.S・オット)
休憩なし約70分 映像による演出付き 映像デザイン:Hakan Demirel ハカン・デミレル(建築家)
アンコール:サティ「グノシェンヌ」第1番
コロナ禍中にアリスが仲間たちを巻き込み、最初は配信と無観客で立ち上げた新しいプロジェクト。すでにCD化(DG)されたが、ライヴのツアーは昨年11月にスタート、5月20日の倉敷から30日の東京まで全国7か所を回った2年半ぶりの日本ツアーにもかけられた。アリス自身が流暢な日本語で試みた邦題は「生のこだま」。デミレルの画像は抽象と具象、聖と俗、洋の西と東などの両極を揺れ動きながら、人が生きる場所、祈る場所、考える場所などへの豊かな示唆を与え、アリスが考えるそれぞれの作品像と付かず離れずの展開をみせる。個人的にはショパン「24の前奏曲」を全曲弾くことにこだわらず、かつてスヴャトスラフ・リヒテルが日本公演やディスクで行ったように「24曲のうち13曲」といった抜粋でいいから、7つの「インタールード」各曲の間隔をもう少し縮め、全体を1時間以内に収める方が、より多くの層に訴えると思った。意欲みなぎる余り、打鍵に余分な力が入って音が濁るのも、せっかくの「祈り」に水をさす気がした。それでも、1か所に安住せず、つねに新しいチャレンジとともに生きるピアニストの輝きには、ただただ圧倒されるばかりだった。
Comments