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大阪国際&セシリア国際、2つの音楽コンクール2度目のカーネギー入賞者ガラ

執筆者の写真: 池田卓夫 Takuo Ikeda池田卓夫 Takuo Ikeda

終演時、全員そろっての挨拶

1947年の米ユナイト映画「カーネギーホール」(エドガー・G・ウルマー監督)。物語は典型的な母子物の域を出ないが、挿入される演奏場面にはブルーノ・ワルター、レオポルド・ストコフスキー 、フリッツ・ライナー、アルトゥール・ロジンスキ(以上指揮者)、アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)、ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)、グレゴール・ピアティゴルスキー(チェロ)、リリー・ポンス(ソプラノ)、リーゼ・スティーヴンス(メゾソプラノ)、ジャン・ピアース(テノール)、エツィオ・ピンツァ(バス)、ハリー・ジェイムズ(トランペット)、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団など、当時のスターが勢そろい。彼らの指揮法、指使い、弓遣い、発声、演技にクローズアップで接しられる点で、貴重な音楽映画といえる。今は「ワイル・リサイタル・ホール」という名称の小ホールの舞台裏、楽屋口から上がってくるエレベーターの真向かいに、この映画のポスターが貼ってある(残念ながら撮影禁止)。いきなり大ホールへのデビューは難しいが、小ホールに辿り着くまでの「カーネギーへの道」だって、プロの演奏家として、厳しい鍛錬の賜物に違いない。


今年(2019年)が第20回の大阪国際音楽コンクール、来年(2020年)が第14回のセシリア国際音楽コンクール(東京)はかねて提携関係にあり、それぞれの入賞者をワイル・ホールの舞台で紹介する「ガラ・コンサート」を2017年に始めた。第1回の模様は私のニューヨークの友人、居候先でもある河内真帆さんが「日経電子版」の記事にしてくださった;


第2回は2019年4月25日。5人のヴァイオリニスト、2人のピアニスト、2人の声楽家からなる両コンクールの優勝・入賞者と助演のチェリスト1人が舞台に入れ替わり立ち替わり現れ、10曲を演奏した。うち何人かは私が審査員として、本選やグランドファイナルで聴いたことがある。小ホールとはいえ「カーネギー」のブランドネームは大きく、それを喜びと受け止めるか、プレッシャーと感じるかで、演奏の出来栄えが変わる実態を、リハーサルから通して聴き、確かめた。同じ時刻、大ホールではイツァーク・パールマン(ヴァイオリン)とエフゲニー・キーシン(ピアノ)の共演という破格に豪華な演奏会があって、ホール周辺には「チケット求む」の札を掲げたファンが行き来していたから、圧力はなおさらだ。ほぼ全員、リハーサルよりも本番の演奏が良かったのは、何よりも素晴らしいことだった。


全員が昨年の入賞者というわけではなく、審査時点から数年を経過している参加者もいた。審査時点から大きく伸び、バルトークのソナタでスタインウェイを鳴らしきった米国人ピアニスト、セス・シュルティースのような演奏を聴くのは当事者としても、大きな喜びだ。大阪の北野蓉子実行委員長の子息でコンクール副代表、医学と音楽を修めた北野裕孝のヴァイオリンも(主催者へのリップサービスではなく)、長足の進歩を示していた。自身の見事なプロコフィエフ(ソナタ第2番の第4楽章)だけでなく、大勢の伴奏からメンデルスゾーンのトリオのピアノまで引き受けた金沢みなつの奮闘ぶりも、賞賛に値する。


半面、声楽家のうち1人は明らかにベストとはいえない状態にあり、もう1人は母国語でないレパートリーで発声や発音の問題点を露呈した。「歌の伴奏だから」程度の考えで、ホールの格に値しないピアニストを同伴するセンスにも、疑問を覚える。女性ヴァイオリニストたちはそれぞれの発展段階において最高の成果を示したが、総じて「弾く」ことへの意識が強すぎた。完璧に仕上げたい気持ちは理解できるとしても、この舞台はコンクール本選ではなく、お客様が音楽を聴きに来てくださるガラ・コンサートである。作曲家ごとの語法、時代の様式、語るべき内容に目を配るとともに、客席の人々と共有が可能な息遣い(ブレス)で楽曲に潤いと歌心を与えない限り、「カーネギーホール」の映画が見事に示した「極上エンターテインメントとしてのクラシック音楽」の域には到達しない。これからの精進に期待しよう。

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