バスバリトン歌手の大澤建は同い年の友人、自分がスタッフとして関わったオペラ公演の打ち上げなどを通じ親しくなった。日本でデビューした後に渡独、ニーダーザクセン州オスナブリュック市立歌劇場第1バス歌手を務め、1997年に帰国した。後半冒頭にマーラー「交響曲第5番」の第4楽章アダージェットのヴァイオリン&ピアノ編曲でゲスト出演したヴァイオリニスト、大澤美佳は夫人でオスナブリュック市立歌劇場管弦楽団でも弾いていた。ピアノの正田彩音は東京音楽大学ピアノ演奏家コースで4年間一貫して特別特待奨学生、2020年に卒業した。私は2019年の第1回ラフマニノフ国際ピアノコンクールJAPANの審査員として初めて聴き、桁外れの才能に驚いた。結果はもちろん第1位。後に別のオーディションで再会したが、今まではプロコフィエフなど技巧曲の鮮やかなソリストのイメージしかなく合わせ物、難易度の高いドイツリート(歌曲)をどう弾くのかにも強い興味を覚えた。
大澤はドイツ語の原詩を自ら日本語に訳しプログラムに載せただけでなく、舞台からも楽曲のポーションごと、内容や作曲のポイントを分かりやすく語りかけ、客席の理解を促した。ドイツ語の日常会話ができることと、歌のドイツ語(Gesangdeutsch)をさばくこととは全く別の能力である。大澤は良く響くバスバリトンで、ハイバリトンやテノールほど明瞭にディクションをキャッチできない箇所もあったが、何より内容の理解が深く、オペラの舞台で鍛えたドラマトゥルギー(作劇法)の再現手法にも抜かりがないので、曲想がきちんと伝わる。
シューベルトの「老年の歌」、R・シュトラウスの「バスとピアノのための3つの歌曲作品87」の第1曲「来るべき齢に達して」はリュッケルトの同じ詩に基づくが、失意の中で若死にしたシューベルト、輝かしい音楽家人生を全うした晩年のシュトラウスの作風の違いを明確に描き分けながら自身の老境の思いも託すなど、選曲にもなかなか味がある。低声歌手に共通の悩みかもしれないが、最初は手こずっていた音程のコントロール、高音域への拡張も曲を追うごとに改善され、気にならなくなった。とりわけマーラーの「リュッケルト歌曲集」の最後に置かれた「真夜中に」の絶唱は素晴らしく、深く心の底に落ちた。
正田はハンブルク・スタインウェイのフルコンサート・グランドの蓋を全開、ロシア奏法に傾倒して究めた強靭な打鍵を巧みにコントロールしながら、大澤のドラマを引き立て、マーラーではオーケストラの様々な楽器が醸し出す色彩感まで想起させる音色で魅了した。まだまだたくさん、隠された引き出しがありそうだ。
文化庁の「アーツ・フォー・ザ・フューチャー」はコロナ禍対応の芸術支援事業の一つ。大澤は若い才能の紹介に焦点を合わせ、正田と3か月間に4種類のプログラムで臨んだ。「リュッケルト」はその最終回。「すべて出しきりました」といい、アンコールはなしだったが、それも当然と思えるほどの全身全霊の全力投球で、清々しい聴後感と余韻を残した。
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