2021年8月26ー29日に反田恭平、入川舜、高橋悠治&アキ兄妹、外山啓介のピアノを立て続けに聴いた。世代も傾向も違うが、それぞれの到達点を示し、聴き応えは存分だった。
「反田恭平ピアノ・リサイタルツアー2021オールショパンプログラム」(8月26日午後2時、サントリーホール)
ショパン「夜想曲第17番」「スケルツォ第2番」「バラード第2番」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」「3つのマズルカ(作品56)」「ソナタ第2番」
ピアノ=ファツィオリ
昼夜同一プログラム2公演、昼の部を聴く。今秋のショパン国際コンクール本戦進出を決め、弾き込む過程のツアーで8月9日の兵庫から30日の札幌まで全国6都市を回る。すでに解釈の土台は固まり、堂々淡々、危なげなく落ち着いた音楽の運びに聴き手は安心して身を委ねた。デビュー当時の〝暴走機関車〟さながらの粗さは完全に影をひそめ、磨き抜かれたタッチで落ち着いた音楽をじっくりと語りかけ、無理な力なしに作品の内面世界へと誘う。
前半は「夜想曲」のトリルでみせたハッとするほど美しい音色、「バラード」の息長い盛り上げ、ポロネーズのリズムの端正な刻み…など随所で目覚ましい進境を印象付けた。半面、和声の〝縦の線〟をきっちり合わせたり、右手の主旋律を魅力的に歌わせる意識が先行して左手の低音の支えが曖昧になったりの「日本弾き」の痕跡も残り、「国際コンクールで不利に働くのではないか?」と少しだけ、心配した。だが後半は「マズルカ」3曲それぞれのキャラクターを自在に描き分け、「葬送」ソナタの落ち着き払った運びの中から浮かんでは消えるデーモンのうごめき、精確なリズムを刻みながら融通無碍の第2楽章、抑制を効かせた「葬送行進曲」の品格、第4楽章の見事な疾走と着地のすべてにおいて、インターナショナルな水準を備えた演奏を繰り広げた。弛まない精進を携えての本選参加、とても楽しみだ。
日本演奏連盟「新進演奏家育成プロジェクト リサイタル・シリーズ TOKYO103《入川舜ピアノ・リサイタル》」(8月26日午後7時、東京文化会館小ホール)
ベートーヴェン「ソナタ第31番」
ブラームス「4つの小品(作品119)」
ジェフスキ「《不屈の民》変奏曲」
ピアノ=ヤマハ
30代前半の入川は東京藝術大学音楽学部大学院を修了してパリへ留学、寺嶋陸也の薫陶を受け、オペラシアター「こんにゃく座」のピアニストも務める。日演連の同一プロジェクト「93」、ちょうど1年前の8月24日に同じホールで大瀧拓哉が《不屈の民》を弾いたリサイタルのレビュー拙稿を知り「私も弾くので是非、お聴きください」とアプローチしてきた。
ベートーヴェンの作品110でリサイタルを始めるのは「かなり大胆な挑戦」と思ったが、案の定、音がばらけ、ペダル過剰で輪郭がぼやけ、「ため」をつくる前に音楽がどんどん先へ進んでしまう。第3楽章の終わりにかけて、ようやく調子が整った。ブラームスははるかに安定、音の粘りと明瞭度を高めるなか、恐らく肌にも合う曲想を丁寧に掘り下げ、よく歌わせていく。とりわけ第3曲、4曲の運びは闊達で、聴き手も安心して音楽に浸りきった。
フレデリック・ジェフスキは今年6月26日に83歳で亡くなり、奇しくも追悼演奏に。入川の演奏は「これに賭けていた」のがよくわかり、さらに精彩を増した。入魂ぶりは緊張の一貫や美しい最弱音の密度で端的に現れ、全曲を一気に聴かせた。構造分析を楽しむかのような大瀧が万華鏡を思わせる音の伽藍を築いたのに対し、入川は抒情とリズムを基調に透明度の高い音の世界を描いた。ブラームスを得意とするピアニストならではのロマンティックな感触も魅力的だったが、全曲中2箇所に現れる口笛は、もう少し強く吹いても良かったか?
「第41回草津国際音楽アカデミー&フェスティヴァル《高橋悠治ピアノ・リサイタル》」(8月27日午後4時、草津音楽の森国際コンサートホール)
サティ「3つのサラバンド」
高橋悠治「アフロアジア風バッハ」
ケージ「四季」(ピアノ版)
以上、高橋悠治のソロ。ピアノ=ベーゼンドルファー
カトリン=スミス「ヴェルヴェット」
サティ(ケージ編曲)「ソクラテス」
以上、高橋悠治&高橋アキ(ピアノ=ヤマハ)の2台ピアノ
夏の講習会兼フェスティヴァルの草分け、草津はコロナ禍で昨年の開催を断念、今年は外国人講師によるアカデミーを休み、プロデューサーでレコード会社「カメラータ・トウキョウ」創業者の井阪紘(1940ー)ゆかりの日本人演奏家中心の音楽祭で再開に踏み切った。自分も草津を訪れるのは2年ぶり。渋川で関越道を降りて草津に向かう一般道は建設是非の政争に揺れた八ッ場(やんば)ダムの供用開始(2020年4月)に伴い、吾妻渓谷周辺のワイルドなドライブ区間がなくなり、退屈なトンネルの連続になった。その分、運転は楽だ。
日帰り往復の強行軍を実行するには、インパクトの強い演奏会に照準を絞りたい。今年は合わせて159歳の高橋兄妹の2台ピアノによるサティ=ケージの珍曲という、ものすごい目玉があった。前半は悠治のソロ。いつものようにスタスタ現れ、無愛想にぺこんと頭を下げて椅子に座った瞬間から弾き始める。余分なテンションを嫌い、音楽の肝だけを淡々と手繰りだす手腕の見事さ、心地よさに身を委ねるうち、いま聴いている場所は間違いなく「草津」ではなく「草津温泉」なのだと認識する。「作曲しているうちに気が変わり、J・S・バッハの《パルティータ第6番》のパロディーになりました」と説明した自作。どこが「アフロアジア」なのかは判然とせず、かなり意地悪な音の連続にだんだん、意識が遠のいていく。ケージの「四季」も「やおい(ヤマなし、オチなし、意味なし)」の風情、どこがクライマックスなのかもわからない歩みの中から「切り詰めた美しい音のシステム」が姿を現し、最後はちゃんとニューヨークの秋の情景を想起させた。オリジナルはマース・カニングハム舞踊団のために作曲した、ケージ最初の管弦楽曲(1947)だ。
後半はアキを迎え、2台ピアノ。ヤマハがベーゼンドルファーを買収したとはいえ、2つの楽器の音色はまるで異なるはずだが、高橋兄妹の手にかかると何の齟齬も感じない。お互いの違いを楽しみ、手玉にとりつつ(妹に忙しいパートを任せ、兄は完全脱力で要所だけ締める)、「弾く」よりも「語り合う」行為に没頭する。時間の進行の中でピアノの重力がもたらす動きを確かめつつ、倍音の余韻の美しさも心ゆくまで味わっている。ニューヨーク生まれ、カナダ本拠のリンダ・カトリン=スミス(1957ー)の2007年作品ではそうした音の融合を存分に味わい、「ソクラテス」では語り合いの側面を楽しむ。悠治が「サティを編曲するというよりは、ほとんどケージの作品にしてしまった」と指摘したように、ケージは曖昧模糊としたサティの素材にかなり具体的なストーリーを与えた。2人の打鍵の微妙なズレが生む豊かなニュアンスは、サティのつくる空間をケージが〝時間化〟していく様を克明に捉える。兄妹それぞれの美意識、音楽に対する考え方を率直に打ち出す「語り合い」は次第に「日本むかし話」の様相を帯び、最後は本当に「ソクラテスの死」に立ち会う気がした。
「外山啓介 オール・ベートーヴェン ピアノ・リサイタル」(8月29日午後2時、サントリーホール)
ベートーヴェン「ソナタ第14番《月光》、21番《ワルトシュタイン》、8番《悲愴》、23番《熱情》」
ピアノ=ハンブルク・スタインウェイ
急な取材が入ってしまい前半2曲しか聴けなかったのが返す返すも惜しまれる、非常に水準の高い演奏だった。
《月光》は幻想曲の実態を踏まえたアプローチ。第1楽章の「ひたひた」とした歩みに、モーツァルトの「幻想曲」のエコーを聴く。過度にリズムを強調せず、倍音の余韻もたっぷりと響かせて、幻想の感触を大切にする。第3楽章もひたむきかつダイナミックながら決して暴れない音楽で、安定した上半身から無理なく力を指先へ送り、良く吟味されたタッチを保つ。コーダに向かう場面で、右手の音型を普通より美しく際立たせるなどの工夫も好ましい。最後は若さが出て、あっさり終わったが、ここはもう少しコッテリでも良かった。
《ワルトシュタイン》は10数年前にも聴いた記憶があリ、大きな進化&深化(もしかしたら神化も)に目をみはった。第1楽章はリズムを克明に刻みつつ過度に打楽器的に叩かず、ベートーヴェン時代の楽器(フォルテピアノ)を思わせる軽やかさ(Leichtigkeit)、俊敏さを保ち、右手のクリスタルな音が落ち着いた響きを醸し出す。最初はちょっと前のめり、フレーズをせっかちに〝食う〟傾向に改善の余地も感じたが、展開部以降は落ち着きを取り戻し、和声感の鋭い美意識、間のとり方の巧みさなど本来の持ち味を発揮した。第2楽章では慈しみ、祈りをこめ、ゆったりと語りかける姿勢が際立ち「あの外山青年がついに、弱音で音楽を語れるまでに成熟した!」と、深い感慨を覚える。第3楽章に切れ目なく入る場面のゆっくり絶妙な呼吸とその後の音のグラデーションの多彩さに感心、静謐さを漂わせ、ゆとりある進行の中にふと現れる夢見るようなトリルの美にも驚き、コーダ直前の逡巡で、一度はすべてが沈む。そこから立ち上がる堂々としたフォルテーー見事な着地で締め括った。
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