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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

児嶋顕一郎のピアノ@柏、井上喜惟指揮マーラー祝祭@川崎〜東京都外に逃れた


音楽会が消えた東京都心を出れば、聴ける

千葉県の柏駅までは高速道路を使い車で60分、神奈川県の川崎駅までは徒歩とJR京浜東北線で40分。最初は5月11日までだったコロナ禍対策緊急事態宣言で歌舞音曲が途絶えた東京都心から江戸川、多摩川を渡ればコンサートが予定通り開かれていた。しかも1時間圏内!エンターテインメントのライブを局地的に封印すること自体、あまり意味のない気がする。それでも世界全体を覆う鬱屈した空気の影響は免れず、一期一会的な演奏の現場に接した。


1)児嶋顕一郎ピアノリサイタル「〜絵画と幻想をテーマにしたプログラムに挑む〜」

(2021年5月8日、アミュゼ柏クリスタルホール)

ドビュッシー「版画」

吉松隆「タピオラ幻想」

ムソルグスキー「展覧会の絵」

児嶋は1991年東京生まれ。日本の高校を出てドイツへ留学、ハンブルク音楽演劇大学で修士課程まで修了、さらにイタリアのフィエゾーレ音楽学校に進み、現在はオーストリアのグラーツ国立音楽大学指揮科に在籍、弾き振りを含む指揮活動も本格化させている。ピアニストとして優秀な成績を収め、国際コンクールにも上位入賞を続けていた2015年、右手の局所性ジストニアを発症、リハビリテーションと並行し、左手ピアニストの領域を開拓した。2020年、両手の演奏も再開し、コロナ禍の下、日本での公演を積極化させつつある。


折り重なる音のソノリティが重視されるドビュッシーでは、久々のリサイタルへの緊張感、いきなり両手の名曲で始める不安があったのか、左手の厚みに比べ右手の薄さ、ぎこちなさが気になった。続く吉松作品は客席に現れた左手ピアニストの大先輩、舘野泉の委嘱作品。「光のヴィネット」「森のジーグ」「水のパヴァーヌ」「鳥たちのコンマ」「風のトッカータ」の5曲からなり、様々な音の響きが空想上の視覚の幻想を広げていく。児嶋の左手演奏は細部まで美しく磨き抜かれ、週末の午睡のまどろみに確かな色彩を与えていった。


「展覧会の絵」では右手のパワーもチャージされたのか、5年間のブランクを感じさせない両手のメカニックが全開した。フランスやロシアで学んだピアニストの煌びやかで外攻的なアプローチではなく、いく分モノトナスで構造的なドイツ風の解釈で作曲者の心象風景を探り、あたかも展覧会場で絵から絵へと移る時間を再現するかのように1曲ごと、十分な間を置いて弾いた。多くのピアニストが技の限りを尽くし、一気呵成に弾くのが当たり前の作品であるにもかかわらず、成立背景と内面の動きの角度から割り出した児嶋の設計はユニークといえ、聴きごたえがあった。


アンコール3曲(スクリャービン、シューマン〜リスト、J・S・バッハ〜山中惇史)は緊張もすっかりほぐれたのか、落ち着いた歌心と淡彩画を思わせる仄かな色彩感が前面に出た。スタインウエイを備え付けたホールは400人収容(感染症対策で1席置きの入場)で残響1.3秒、駅や駐車場からも近く、優れたリサイタル会場といえる。


2)マーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会(2021年5月9日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

指揮=井上喜惟、アルト=蔵野蘭子、合唱=横浜少年少女合唱団、少年少女合唱団カントルムみたか、東京オラトリオ研究会

マーラー「交響曲第3番」

2001年に始まった井上とアマチュア・オーケストラのマーラー交響曲シリーズ。昨年の同じ5月9日に同じホールで予定した「第3番」はコロナ禍で1年延期、事態が依然改善しないなか、昨年末から感染対策を最大限考慮した練習を再開し、合唱団もマスク着用で十分な距離を保ちながらの本番が実現した。井上は「マーラーがこの作品を書き始めたハンブルク市立歌劇場時代の1890年台は、ヨーロッパ各地をコレラによるパンデミックが襲い、マーラーもコレラを避けるため、しばらくハンブルクでの活動を休まざるを得なかった」と、公演プログラムに記した。「裏面にある精神的な背景はまさしく、現代の我々が直面している状況と酷似している」「この作品が単なる自然への賛美や神を通しての賛歌ではなく、より死の不安のようなものが感じ取れる」という指揮者の見解は、再現解釈の随所に反映された。


ゆっくりした歩みで、柔らかく楽想を重ねていくのが今回、井上がとったアプローチの基本だ。メンバー1人1人が今ここ、聴衆の前で音楽を奏でる意味をかみしめながら、丁寧に音を紡いだ。恩師に当たるイスラエルの名指揮者ガリー・ベルティーニの演奏(ドイツでも日本でも実演に接した)はもっと感情の振幅が大きく大きく粘度も高かったが、井上はもっと静かな世界に身を置き、個々の自発性に主導権を託した「巨(おお)きな室内楽」を志向しているようにみえた。問題は余りの自然体が単純な時系列処理にとどまり、時間軸を〝前後に盗む〟技が不足するためフレーズへの成就、絶頂感、うねり…といった側面がどうしても犠牲になる。時々、「こんなにあっさりした音楽だったっけ?」と思ったりもした。それでも、心に沁みる音楽だった。


蔵野の声を聴くのは、かなり久しぶり(たぶん、2016年の第8番《一千人の交響曲》以来5年ぶり)。1997年の新国立劇場開場時点、日本期待のワーグナー歌手だった強じんな声は比較的早くに威力を失ってしまったが、ドイツ語の意味を深くとらえ、すでに気心知れたオーケストラのメンバーたちと会話を楽しむかのように語りかける独唱の魅力は依然、捨て難い。子音をきっちり立たせるなど、随所で折目正しさを感じさせる歌。これに対し合唱は、マスク着用によって子音が完全に〝寝て〟しまった。井上は「そんなこと承知の上」と言わんばかり、響きの美しさを徹底して磨き上げ、器楽的ともいえる和声感をオーケストラとの間に現出させた。管楽器と指揮者以外の演奏者と聴衆の全員がマスク着用という異様な光景の中で繰り広げられた、マーラーの屈折した自然観照の音楽の再現。2021年5月9日というタイミングでしかあり得ない貴重なコンサート体験だ。

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