昨年(2017年)から今年にかけての3回シリーズを通じてバッハ一族からアメリカ、新作までのパノラマを提示したピアニスト、佐藤祐介が久々のリサイタルを2018年12月14日、これまでと同じ東京オペラシティ・リサイタルホールで「シリーズVol.4」として開いた。
「〜フランス音楽・時代の開拓者たち〜クープラン一族、フランス6人組からの展開」。タイトルから察しがつくように、ドビュッシー没後100周年記念に熱中した同業者たちをよそに、〝ストライクゾーン〟のドビュッシーもラヴェルも抜いて、フランス鍵盤音楽史を俯瞰する個性的なプログラミングだ。前半はルイ、フランソワ、アルマン・ルイのクープラン一族と同時代のダジャンクール、フォルクレがクープランを題材にした18世紀のクラヴサン(チェンバロ=ドイツ語、ハープシコード=英語と同じ意味のフランス語)曲をたっぷり並べ、最後に伊藤巧真への委嘱新作「クープラン環」を世界初演。後半は20世紀前半に活躍した「フランス六人組」のデュレ、オーリック、タイユフェール(唯一の女性作曲家)、プーランク、オネゲル、ミヨーの作品をポプリ(接続曲)のように連ね、中川俊郎への委嘱新作「入場曲、4つのカリカチュア、インヴェンション、退場曲」の世界初演で完結。アンコールはカメラータ・トウキョウからの新譜に収めたドゥセクとプーランクの小品。マイク代わりに中川作品で使用したメガホンをそのままトークに使い、ユーモラスに締めくくった。
今年の佐藤は夏から秋にかけて体調を崩し、挙げ句の果ては交通事故の被害に遭い入院するなど、かなり散々の展開だったので心配したが、ステージに現れた瞬間、すべて吹っ切れた爽快感を全身に漂わせ、ホッとした。演奏も確信に満ち、ひたすらピアノと向き合いながら発想し練り上げたコンセプトで独自の選曲を構成、他に2つとないミクロコスモス(小宇宙)をつくる感性が一段と冴え渡る。肩から肘にかけての脱力が行き届き、手首から掌(てのひら)、指の柔軟性を十分に生かしながら、美しい音を紡いでいく。
先年、草津の夏季音楽アカデミー&音楽祭でイタリアの鍵盤奏者クラウディオ・ブリツィからチェンバロの手ほどきを受け、18世紀音楽独自のアーティキュレーションやフレージングに開眼、モダン(現代)ピアノによる再現であってもペダルの使用を控えるようになった。今回のリサイタルに選んだウィーンの名器ベーゼドルファーのフルコンサートグランドでも、前半はノンペダル。結果、音の減衰や左手の刻み、右手の歌い回しなどの随所でクラヴサンの世界を再現することに成功していた。伊藤の新作は「クープラン一族の作品群と私の創作が干渉しあうことによって生まれた3つの音楽のモアレ(干渉縞)。それらを不可逆につなぐための2つのスパイラル(螺旋)から構成」(伊藤自身の記述より)され、ドビュッシーの「ラモーを讃えて」やラヴェルの「クープランの墓」などを想起させる音の遊びが繰り広げられた。
後半の「六人組」の諸作ではミクロコスモスがよりダイナミックに広がり、前半であるいは貼られていたかもしれない「小さく美しい音で囁くように弾くピアニスト」のレッテルを自ら、大胆に剥がしていった。この「レッテルへの反旗」、実は後半全体を貫くテーマだったことは中川の新作の進行中、佐藤がメガホンから放つ言葉で種明かしされる。ミヨーのソナタの自由闊達な演奏に続き、諧謔味と音楽の教養に満ちた中川の才気あふれる音楽がホール全体に広がり、素晴らしいフランス音楽へのオマージュのリングが完結した。振り返れば、フランスの鍵盤音楽史にはヴェルサイユ楽派のクラヴサン作品からの一貫した流れがあり、イネガル(不均等奏法)の伝統はクープランからドビュッシー、ラヴェル、メシアンに至るまで途切れることなく受け継がれている。その実態をドビュッシー、ラヴェル抜きで立証してみせたのが佐藤のプログラミングだった。このところ、コンクール審査や一部の若手演奏会を通じ、「名曲をそれなりに並べ、ガンガン弾けば一丁上がり、喝采も期待できる」といったノリに辟易していたので、誰とも違う美意識を迷わず提示、作品の時代や様式にふさわしい音で伝える佐藤の行き方を強く支持したい。
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