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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

世界楽壇の世代交代印象づけた読響定期ヴァルチュハの鮮やかなマーラー第9番

更新日:2022年8月25日


私が学生だった1980年代初頭まで、マーラーやブルックナーの長大な交響曲あっても前半にモーツァルトなど少し小ぶりの協奏曲を置くオーケストラ演奏会が多かった。2022年8月23日、サントリーホールの読売日本交響楽団第620回定期演奏会(コンサートマスター=長原幸太)は演奏時間85分に及ぶマーラーの「交響曲第9番ニ長調」の前にモーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595」があり、時代が逆戻りした錯覚を感じた。指揮は今回が東京デビューに当たる1976年生まれのスロヴァキア人、サンクトペテルブルク音楽院で名教師イリヤ・ムーシンに師事したユライ・ヴァルチュハ(ナポリ・サンカルロ歌劇場とヒューストン交響楽団の音楽監督)。ピアノ独奏は1948年パリ生まれのフランス人ながらウィーンでアルフレッド・ブレンデルらの教えも受けたアンヌ・ケフェレックが務めた。


一時義妹(弟の元妻)の関係にあったブリジット・エンゲラー(1952ー2012)がモスクワ仕込みのロシア奏法で鳴らしたのとは対照的に、ケフェレックの持ち味は超絶技巧や大音量ではなく、思わず「マドモアゼル」と呼びたくなるセンスの洗練、歯切れのいいタッチ、小ぶりのホールで複数の作品を切れ目なしに弾いて形成する小宇宙にある。それがサントリー大ホールに迷い込み、ロシア仕込みのドルチェ(甘口)で豊麗なモーツァルトを志向する、息子と同年代の指揮者と対峙した時点で勝手が違ったのだろう。音量への不安からか、いつもより多めのペダル使用と慎重な運びが曲の生気をいく分か削ぎ、「春への憧れ」よりは「秋の予感」のセピア色の世界に傾いていったのはファンの1人としても残念だった。アンコールのヘンデル(ケンプ編)「メヌエット ト短調」で少し、自分の世界を回復した。


マーラーの「第9」では第1楽章が始まってしばらく、妙な違和感を覚えた。過去の多くの演奏に共通した「しみじみした感触」のかけらもない。聴き進むうちに「マーラーは優秀な指揮者だったから自分以前の交響曲の構造を知り抜き、時には禁じ手も使いながら、管弦楽を派手に鳴らす仕掛けを施したのだ」「挑発的態度の点では、ベートーヴェンの交響曲をフランス語圏に広めた指揮者のベルリオーズが、自身の出世作『幻想交響曲』ではとことん〝逸脱〟を仕掛け、楽しんだ姿に重なる」といった理解が深まり、マーラーの「あざと素晴らしい」痕跡をことごとく白日の下にさらけ出すヴァルチュハの譜読みと指揮の確かさ、その全てを再現する読響の演奏能力の高さに魅了されるまで、大して時間はかからなかった。


作曲家&指揮者のキャリア絶頂期に急な病で亡くなり同時代の人々に与えた多大な「マーラー・ロス」心理、はるかに長生きした元妻のアルマがそれを誇張して伝えた後遺症が尾を引き、ペシミズムや死の影の側面が異様に強調されがちな交響曲の真価をこれほどまで克明に、しかも高いテンションとともに明るみへ引っ張り出した指揮者の力量に、改めて驚く。ブルーノ・ワルターの発言、「マーラーは第一次大戦が始まる前に亡くなりました。彼の交響曲は最後の第9番に至るまで、ヨーロッパが幸せだった時代に書かれたものです」を思い出した。室内楽の基本に回帰して音楽の過去から現在、さらに未来へのリスペクトを非常に肯定的に打ち出した作曲家の充実、幸福感を描き切った着地。圧倒された聴衆の沈黙は、恐ろしく長く続いた。もちろん楽員退出後、ヴァルチュハへのソロアンコールが待っていた。




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