新日本フィルハーモニー交響楽団の第602回定期演奏会、2019日3月30日サントリーホールの「ジェイド」シリーズは音楽監督・上岡敏之の指揮でマーラー「交響曲第2番《復活》」をとりあげた。ソプラノは森谷真里、アルトはカトリン・ゲーリング、合唱は栗友会合唱団(栗山文昭指揮)。「どんな名曲であっても一から洗い直し、3日間の練習で隅々まで弾きこむ」という上岡の方針を反映、1つたりとも意味のない音がない凄絶演奏だった。
冒頭の低弦の刻みからして効果狙いの「虚仮威し(こけおどし)」を排除、それぞれの楽器にマーラーが与えた音型や響きの意味を熟慮しながら、じっくりと掘り下げていく。フレーズからフレーズへの移行には、「ルフトパウゼ」といえるほどの間を置き、勢いだけで景気よく進む「昭和の日本のマーラー」の継承を敢然と拒む。金管や打楽器のソロによる、ほんの小さな潤色も見逃さず、明確なアクセントを打つ。それでもバラけた印象を与えないのは緩急自在のテンポ設定で、起承転結を巨視的に与えているからだろう。極限まで抑えた弱音を出発点として音量に無限の変化を与え、あれこれ積み重ねた先に、真の爆発が訪れる。アルトのゲーリングは「男勝り」の逆、フェミニンな美意識で「原光(ウアリヒト)」のテキストを一語一語、かみしめるように歌う。ソプラノの森谷は、芯が太くクリスタルな美声で存在感を発揮した。栗友会の合唱も指揮者の弱音志向を見事に生かし、陰影に富んでいた。
上岡の読譜はおそらく、「この音をどう鳴らすか」よりも「この音はどこから来たのか」の問題意識を強く持ち、音楽にとどまらないヨーロッパ社会の複雑に絡み合った歴史の謎解きに挑むレベルまで達しているのではなかろうか。マーラー自身が実行したように中世の宗教曲から俗謡に至るまでの音楽遺産から「使えるものは何でも使い」、ヨーロッパ文化の一断面としての響きを提示する。今日の「復活」を聴きながら私が想起したのは、ドイツ語を母国語とするユダヤ人カペルマイスター(楽長)&作曲家の系譜である。
マーラーは初めての声楽入り交響曲を作曲するに当たり、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターを務め、合唱と独唱を交えた「交響曲第2番《讃歌》」(奇しくも同じ番号だ!)を「復活」の半世紀余り前に完成したメンデルスゾーンを意識していたのではないか。しかもメンデルスゾーンからマーラーにかけてのヨーロッパは、産業革命以後に出現した新しい社会階級の富裕市民層(ブルジョアジー)が音楽界でも次第に重要な役割を担い、各地に新しい演奏会場やオーケストラが次々に誕生した。シンフォニーコンサートの定番化、市民参加の合唱団との共演といった展開のなかで、オラトリオやカンタータと交響曲を融合させたような作品に、「大ヒットの予感」があったとしても不思議ではない。
上岡の微に入り細にうがった指揮、千変万化する響きの妙に接していると、作品の背後に横たわる音楽史、社会史の痕跡まで見えてくるような気がしてくる。その「しつこい」要求にこたえ、鮮やかな演奏を繰り広げた新日本フィルも立派だった。上岡が音楽監督に就いて3シーズン、高い芸術の理想を掲げポピュリズム(迎合主義)にくみさない姿勢は、一時的に客入りの低下を招いたが、今日の「復活」は完売。ようやく彼と新日本フィルが目指す音楽に共感する聴衆が増え始めた点でも、「復活」の名に値する記念碑的演奏会だった。
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