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  • 池田卓夫 Takuo Ikeda

ヴィオレッタからカルメン、ルル…。オペラのヒロインに命を吹き込む演出とは


2020年2月の第3週は4日間に東京都内でヴェルディの「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」舞台上演2回とビゼーの「カルメン」演奏会形式上演1回を鑑賞、合間にはオーストリアの女性演出家カロリーネ・グルーバーのトークセッションにも参加して、「オペラを演出するとは、何か?」を改めて考えさせられた。全曲演奏3公演の中で最もオペラの歓び、感動を与えてくれたのが、オーケストラの定期演奏会で最低限の所作に徹した「カルメン」だったこと自体、ごくたまに舞台の制作サイドにも回る自分には、ショッキングな出来事である。


2月19日の東京文化会館大ホールは東京二期会が宝塚歌劇団の原田諒をオペラ初演出、初来日のイタリア人ジャコモ・サグリパンティを指揮に起用した「ラ・トラヴィアータ」。2組のキャストのうちヴィオレッタを大村博美、アルフレードを城宏憲、ジェルモンを今井俊輔の組が初日を担った。オーケストラは東京都交響楽団(都響)。リハーサル日程がインフルエンザで変更を余儀なくされたり、一部キャストに交代があったりのアクシデント以前に、恐らくふだんは付属教育機関(宝塚音楽学校)で厳しく訓練、選別された歌と踊り、演技のプロフェッショナル集団と仕事をする原田にとって良くいえば百花繚乱、悪くいえばそれぞれ「俺流」「私流」で活動の本拠も異にする声楽家集団に自身の解釈、美意識を伝え、齟齬のないアンサンブルに仕上げるのは難行苦行の連続だったのではないか? 年長世代には1959年から2005年まで二期会が「椿姫」で採用していた栗山昌良演出の「型」が体に染み付いた歌手もいたはずだ。結果、ソロの部分は個人プレーの仁王立ち、群衆シーンや舞踊でようやく、宝塚風マスゲームの華やかさを思い出すに至る。思い切って若手だけのキャストを徹底的に鍛えて再演すれば、原田のコンセプトや美意識は、より明確に浮上するだろう。


問題は装置と指揮。松井るみの装置は舞台全体を白い椿の花弁にしつらえた。アレクサンドル・デュマ=フィスの原作は19世紀半パリの夜の世界(ドゥミ・モンド)に生きる高級娼婦(クルティザーヌ)のヒロイン、マルグリット(オペラではヴィオレッタ)が「1ヶ月のうち25日間は白い椿、月経で〝休業〟する5日間は赤い椿を身につけたことで《椿姫》と呼ばれた」と規定する。当然、今回の制作チームでも「白か赤か」の議論はあったが、「白なら照明の変化で赤くもできる」との理由で白にしたという。私には花弁が巨大過ぎて、特に舞台中央の円盤が赤く染まって以降は世界最大の花で食虫植物のラフレシアに思えた。花を上下する動作を観ながら「カルメン」第3幕第1場の山中、盗賊グループのアジトを思い出した知人もいた。第2幕以降、天井に鏡の円盤が降りてきて事態は少し改善したものの上手と下手、後方のすべてに開かれた装置は反響に支障をきたし、舞台前方で歌わない限り、声が客席まで飛んでこない。個々の日ごろの声量を知っているので、ダメージは大きい。


サグリパンティはオペラを中心にキャリアを築きつつある若手。スコア(総譜)に書かれた各声部をくっきりと浮かび上がらせ色彩豊かに重ねる音づくり、「ヴェルディの肝はリズムにある」と言わんばかりの解析、とりわけワルツの処理には非凡なものがある。都響との相性も良い。半面、歌手それぞれの持ち味を引き出しながら、ゆっくりとアンサンブルを整えていくような経験値は明らかに不足、自分の音楽で「前へ前へ」と先振りしていくので、歌う側がきっかけをつかめず、恐る恐るの歌唱となる。特に初日の第1幕は不調の歌手を気遣ってか、音量もセーブしていたので一段と大人しい印象を与えた。基本がシンフォニーオーケストラの都響を起用した結果、精緻だがクールな響きの管弦楽が鳴り続け、ヴェルディを聴く「ときめき」を感じなかった。次回は是非、都響の定期演奏会で聴きたい指揮者だ。


オペラ初体験を逆手にとり、演出家が「やりたい放題」を繰り広げた点では2月22日、東京芸術劇場コンサートホールで観た「2019年度全国共同制作オペラ(白河・金沢・京都)」最終公演の矢内原美邦演出、ヘンリク・シェーファー指揮読売日本交響楽団(読響)の「ラ・トラヴィアータ」の方に「一日の長」があったと敢えて書く。コンテンポラリーダンスのカンパニーの振付から小劇場系の演劇に領域を広げ、頭角を現してきた女性演出家が「夜の女」、取り巻く男たちをどう描くかに私の関心は集中していた。出がけに東京文化会館に寄ってレクチャーを聴き、立ち話をした旧知のグルーバーも「たいがいのオペラは男の作曲家が書き、最後に女が死にます。私は女の側から物語を読み直し男の考え方も解き明かしながら、オペラを演出しようと志したのです」と、女性演出家の立ち位置を語っていた。


ここでの問題点は、ざっと大小2つ。大きい方は、地理的にも離れた公共ホール3館の共同制作ということで全体を束ね、時には強権も発動できるエグゼクティブプロデューサーを欠いたことだと思えた。矢内原が次々と繰り出す独自のアイデアを交通整理、オペラの生理と矛盾しない形にまとめ上げ、結果、演出家の意図がより大勢の観客にしかと伝わるような采配を振るえる人材がいたとは思えない。頻繁に投入される映像(高橋啓祐)、ダンス(矢内原自身の振付)と歌の舞台シェア(占有率)の割り振りにも統括者の不在を実感した。「どれか一つに集中したい」と思う場面が、あまりに多かった。各会場の形状や音響が異なり、管弦楽も東京が読響、白河と金沢がオーケストラ・アンサンブル金沢と分担なので「最も聴きやすい状態」の設定も大変だったはず。東京芸術劇場は改修後、響きが格段に豊かになった結果、時に歌が過剰に響く。旬の美声でアルフレードを熱演した宮里直樹の声がPA(音響補助)を入れたのではないかと思うほど大きく、主催者に確かめたところ生声だった。


もう1つの問題は視覚の乱反射。第1の問題の統率者不在の裏返しでもあるが、初めてのオペラに破格の大舞台で立ち向かうことになった矢内原がある種〝空間恐怖〟を抱いたのか、一から十まで詰め込み過ぎて、それぞれのキャラクターの人物像と内面、ヴェルディの音楽やストーリーが語りかけるメッセージの核を見えにくくしてしまったことだ。前半の原色満載と後半の黒基調の衣装(田中洋介)の対比、コミュニケーションの不毛をスマホの濫用で見せる手法などは余りに皮相的(superficial)でやればやるほど、その時代、その場に存在し、生きざるを得なかった人々の死へと突き進む過程の哀しみを、遠ざけてしまう。どんなに過激な読み替え、ヴィジュアルに挑んでも音楽劇ならではの美しさ、情感を忘れないでほしい。エヴァ・メイの代役のヴィオレッタ、ロシア人のエカテリーナ・バカノヴァは細く通る声、美しい容姿、アンサンブルへの協調性で貢献した半面、高音の輝きや装飾音型を歌いこなすテクニックが万全とはいえず及第点。宮里の他にはアンニーナの森山京子、ガストーネの古橋郷平、ドゥフォールの三戸大久、ドゥビニーの高橋洋介らの健闘が印象に残る。


シェーファーはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のヴィオラ奏者から指揮に転じ、2007ー2014年には広島交響楽団首席指揮者を務めたから、日本でもおなじみの存在。現在はスウェーデンのエーテボリ歌劇場音楽監督といい、オペラ指揮にも通じているようだ。確かに読響の優れた機能を最大限に引き出し、ダンスにはぴったりのダイナミックな音響を提示はした。ただ音をつくる基本が強弱、あるいは「0」「1」に振り分けたデジタルな発想に終始するため、中ぐらいの音量ゾーンに歌手が自由に動き歌える「のりしろ」を設け、カンタービレ(旋律)をたっぷりと歌わせていくイタリアのマエストロ流儀のかけらもなく、またしても、ヴェルディを聴く陶酔感を得ることはできなかった。


誤解を招かないよう記しておくが、私は西洋古典の再現においても日本でしかできない実験的解釈を試みること自体に反対する者ではない。東洋人が往年のイタリア人大家ルッキーノ・ヴィスコンティやフランコ・ゼッフィレッリが制作した絢爛豪華な舞台、カルロ・マリア・ジュリーニやヴィットーリオ・デ・サーバタが指揮してマリア・カラスやレナータ・テバルディのヴィオレッタ、ジュゼッペ・ディ・ステーファノやアルフレード・クラウスのアルフレード、ティト・ゴッビやロランド・パネライのジェルモンらが絶唱を競った時代の舞台を追いかけ、真似するだけでは何も生まれないことも知っている。ただ、日本では民間の興行で実験するリスクをとるだけの余裕が経済情勢の悪化とともになくなり、行政主導の企画への期待が高まってきた。だからこそプロデューサーは「税金の無駄遣い」と批判されないよう襟を正し、細心の注意とともに若い世代の実験を後押ししなければならないのだ。カーテンコールで宮里が矢内原の登場を促したとき、1人で〝審判〟を受けるのを避けるかのように即アンサンブルの輪に入ってしまい、若干のブーイングが起こった。内心忸怩たる思いがあったのか、「来るべき事態」に徹底して守ってくれる人の不在を確信していたのか、彼女の意図はわからない。だがクリエーターたるもの、評価の瞬間を忌避すべきではない。


名誉音楽監督チョン・ミョンフン(鄭明勲)が指揮した東京フィルハーモニー交響楽団(東フィル)2020年2月の定期演奏会は「カルメン」の演奏会形式上演3回(19日=東京オペラシティコンサートホール、21日=サントリーホール、23日=Bunkamuraオーチャードホール)という思い切った企画だった。ミョンフンは2004年、藤原歌劇団と仏オランジュ音楽祭共同公演と銘打った「カルメン」を東京文化会館で3回指揮(題名役は藤村実穂子とエカテリーナ・セメンチュクのダブル)したが、管弦楽は当時首席指揮者を務めていたフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団だった。東フィルでは過去にも定期演奏会で「蝶々夫人」(プッチーニ)や「トリスタンとイゾルデ」(ワーグナー)、「フィデリオ」(ベートーヴェン)などの名作オペラを演奏会形式で上演、目覚ましい成果を積み上げてきたので、今回の「カルメン」も早くからチケット完売となり、かなりの期待を集めていた。


果たして21日。20分の休憩をはさみ3時間の上演が1時間くらいにしか感じないほどに魅惑され、オペラを「聴く」醍醐味を存分に味わわせてくれた。オープン直前の騒動でダニエル・バレンボイムが去り、先行きを危ぶまれたパリ・オペラ座バスティーユ歌劇場の音楽監督(1989ー1994年)に抜擢されて以来、ミョンフンのオペラ指揮のキャリアは30年以上に及ぶ。暗譜の指揮でアリアの後の拍手も巧みに抑えながらどんどん前へと進みながら、歌手の呼吸や動作は一切妨げず、潜在能力を極限まで引き出し、強力なアンサンブルに収斂させていく力量は圧巻だ。1999年に新星日本交響楽団の特別演奏会で初共演、新星日響が東フィルと合併した2001年にはスペシャル・アーティステック・アドヴァイザーに就くなど、両者の結びつきも20年を超えた。最初のころは器用でも表面的な響きに飽き足らず、土を掘るジェスチャーで「もっと音を掘り下げて!」と求め続けたが(後に楽員たちは敬愛の情をこめ、マエストロにスコップをプレゼントした)、近年はミョンフンと東フィルが一体となり、恐ろしく燃焼度が高く、彫り込みの深い音楽を聴かせる。


題名役のマリーナ・コンパラート、ドン・ホセのキム・アルフレード、エスカミーリョのチェ・ビョンヒョク、ミカエラのアンドレア・キャロルのイタリア・韓国・米国混成ゲスト歌手とスニガの伊藤貴之、モラレスの青山貴、ダンカイロの上江隼人、レメンダートの清水徹太郎、フラスキータの伊藤晴、メルセデスの山下牧子の日本人歌手の間に落差がなく、ミョンフンとの共演歴も豊富なので、どこにも穴がなかった。全員が暗譜で、それなりの所作も伴うので、ストーリーのトレースも容易だった。新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮)と杉並児童合唱団(津嶋麻子指揮)も人海戦術に依らず、質を重視した歌唱で盛り上げた。ミョンフンの統率のもと、ここまで南欧風の熱気に満ちた音楽を聴かされ、声の魅力も存分に味わえた結果、「素晴らしいオペラの時間だった」と断言できる満足感。2つの「椿姫」もご一緒した先輩評論家が一言、「プロの仕事は違うね」と漏らしたのが、妙に生々しかった。


最後にカロリーネ。2004年に二期会や新日本フィルハーモニー交響楽団との打ち合わせのため初来日した際にインタビューして以来、ずいぶん長い付き合いになった。東京二期会では2005年の「フィレンツェの悲劇」(ツェムリンスキー)&「ジャンニ・スキッキ」(プッチーニ)の「フィレンツェ二本立て(ダブルビル)」、2011年の「ドン・ジョヴァンニ」(モーツァルト)、2016年の「ナクソス島のアリアドネ」(R・シュトラウス)に続き、2020年7月に「ルル」2幕版(ベルク)の新演出に挑む。年に数回はプライベートで日本を訪れるほど「通」になり、今回も旅行中の1日をトークイベントに引っ張り出された。


まず「私には《リング(ニーベルングの指輪)》や《ばらの騎士》を一度は演出したいといった、特定の作品を意識した演出の目標が存在しません。ストーリーが私に何かを強く語りかける作品を選び、女性の目で読みこんだ解釈をドイツ語圏のムジークテアーター(音楽劇場)の手法で視覚していくのです」と、自らの存在意義を規定した。


「ルル」に関しても語るなか、私は「多くの男性演出家がルルをモンスター的な〝怖い女〟に仕立てますが、あなたはどう造形しますか?」と質問してみた。「オーストリア人でウィーンに学んだ私は先ず、ヴェーデキントの原作を読み込むところから始め、演劇的に処理するつもりです。ルルは断じてモンスターではありません。非常に幼い時点で路上生活を強いられた少女がシゴルヒという老人に引き取られ、さらにシェーン博士のもとに送られたのです。ある意味、時代の犠牲者としての幼児体験が18ー19歳以降どのように展開していくのかに、興味は集中します。見方を変えれば21世紀の♯me too(性的嫌がらせ=セクシュアルハラスメントや暴行の経験を告発・共有、再発を防止する運動)の時代に至って初めて、細部まで解き明かすことができる作品です。私は《ルル》を〝#me tooオペラ〟と呼びます。ルルの心理の内面が今日持つ意味を表現するため、私の演出では初めて、コンテンポラリーダンスによる分身が登場するはずです」。矢内原はダンスからオペラへのアプローチだったが、グルーバーはオペラからダンスへのアプローチ。きっと凄く、刺激的なはずだ。

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