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  • 池田卓夫 Takuo Ikeda

レ・フレールの熱い「ノエル」に手拍子→ゲルギエフの凄絶「悲愴」に感涙の日


盛りだくさんの1日

2019年12月5日は自分にとって、「音楽の当たり日」になった。


昼は徒歩圏内のキリスト教品川教会にピアノ連弾の兄弟ユニット、齊藤守也と齊藤圭土の「レ・フレール」による「ノエル・ド・キャトルマン(クリスマスの4手連弾)2019」を聴きに出かけた。ルクセンブルクに留学して修めたクラシックのピアノを基盤に、ブギウギからアニメ、オリジナルまでを激しいボディアクションとともに奏でる「キャトルマン」という独自の演奏スタイルを編み出して、根強い人気がある。自分はインディーズ時代から15年以上も追いかけ、今年9月にも兄の守也、弟の圭土それぞれ単独、ユニットの3部構成による長いインタビュー記事を音楽之友社のWebサイト「ONTOMO」に載せた。

https://ontomo-mag.com/article/interview/lesfreres-20190913-2/


新譜の「ディズニー・オン・キャトルマン」(ユニバーサル)は何とディズニー公認のオフィシャル・アルバム。たまたま12月5日は創業者ウォルト・ディズニーの誕生日に当たり、クリスマスソングの編曲やオリジナル曲のほかディズニーの名曲もたくさん、キャトルマン・スタイルで奏でられた。もう2人とも40代で子どももいるが、全身を激しく使い、客席の手拍子とともに熱く盛り上がる演奏スタイルは衰えるどころか、ますますパワーを増している。教会備え付けのニューヨーク・スタインウェイも鳴りきって、文句なしに楽しいノンストップ90分間だった。


自分が4歳で生まれて初めて観た映画は、ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」(1961年米国、日本は翌年公開。現在の邦題はシンプルに「101匹わんちゃん」に変更)。以来57年間、ミッキーマウスやドナルドダックらは絶えず身近な存在だった。先週は舞浜の東京ディズニーランドを36年ぶりに堪能したし(ディズニー・シーの方は何度か訪れている)、101匹わんちゃん=ダルメシアン犬の〝原産国〟クロアチアも訪れ、銀座のバー「ダルメシアン」( http://bardalmatian.com/ )を行きつけとしている。レ・フレールのライヴを初めて聴いた場所も、ランドに隣接する商業施設「イクスピアリ」のバー&レストランだった。くどくど書いたが、要するに、自分とディズニーの半世紀近い歴史の3分の1をレ・フレールと共有しているわけで、彼らともますます長い付き合いになりそうだ。品川教会の十字架、もみの木、パイプオルガンを眺めながら、心はいつしか、4歳の子どもに戻っていた。本当の聖夜を前に、全身が温かくなる時間をくださって、ありがとう!


夜はサントリーホールへ出かけ、ワレリー・ゲルギエフ芸術監督が指揮するロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場管弦楽団を聴いた。今回の日本ツアーはオペラ2作、「マンフレッド」を除く6つの交響曲、ピアノ(全3曲)とヴァイオリン、チェロを独奏とする5曲の協奏的作品を網羅し、「チャイコフスキー・フェスティバル」と銘打った。残念ながら他の仕事と食い合い、聴けたのは5日の「交響曲第1番《冬の日の幻想》」「チェロと管弦楽のための《ロココの主題による変奏曲》」(独奏=アレクサンドル・ブズロフ)「交響曲第6番《悲愴》」のプログラムだけだったが、通常のコンサート数回分かそれ以上の手応えというか衝撃を受けた。先ず演奏時間が長い!ブズロフのアンコール(J・S・バッハ「無伴奏チェロ組曲」第3番の「サラバンド」)、20分の休憩を交えて19時開演、21時40分終演だったが、退屈する瞬間は皆無だった。


「悲愴」以外の2曲は、さすがに演奏頻度が低いとみえ、指揮者は譜面台を置いた。「冬の日の幻想」が始まった瞬間、強行日程にもかかわらず、オーケストラの「やる気」が半端ではなく、巨大な音の有機体が自在な伸縮を繰り返しながら、眼前に迫ってくる錯覚を覚えた。ゲルギエフは細かく指示を出すよりも、全身をボクサーのように動かし、この「音の生き物」に強烈なエネルギーを吹き込む。赤坂アークヒルズのコンクリートはいつしか、ロシアの雪景色にとって代わる。世代交代の進んだ楽員それぞれ(特に管楽器)がソリスト級の技量を備えながら、ベルリン・フィル的に全員がフロントラインに出ることをよしとせず、活力ある細胞の一つ一つとして有機体の構築に尽くすので、はっきりとした音色が出る。


ブズロフは1983年モスクワ生まれの中堅。チャイコフスキー、ミュンヘン(ARD=全ドイツ放送協会連合)、ジュネーヴなどの著名な音楽コンクールへの入賞歴がすべて第2位という経歴は、ブズロフの地味ながら底光のする芸風と見事に一致する。現在は母校モスクワ音楽院で教鞭もとっているといい、弾き崩しや遊びなし、楷書体のきっちりしたソロで難曲と向き合った。最初は「華がない」「音色のバラエティが足りない」とも思ったが、わき目を振らずに核心の一点だけを見つめ、低音からハイ・ポジションまでムラなく発音、最初から最後まで緊張を保つ矜恃に、最後は深々と頭を下げたくなった。協奏曲がド派手なスターのソロだと、作曲家を主役に立てたプログラミングの均衡が崩れる。吟味された人選だった。


そして「悲愴」。いったい、何が起きていたのだろうか? 自分には一夜明けても、興奮の余韻が消えない。ゲルギエフはかなり早めのテンポで振り(暗譜)、楽章ごとの間をほとんど置かず(アタッカ)、ルバートやリタルダンドの「ため」は本当の決めどころだけ見事に決めながら、第4楽章へとなだれ込んだ。一転、音楽は途切れ途切れとなり、もう1つのオーケストラであるミュンヘン・フィル(ちなみに今回のマリインスキー管のコンサートマスターはミュンヘンと掛け持ちで最近、パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団の定期演奏会にも客演したモジャモジャ頭のロレンツ・ナストゥーリカ・ヘルシュコヴィチが務めた)で全曲録音を進めるブルックナーの交響曲を思わせる「間(ルフトパウゼ)」が、大胆に時の流れを堰き止める。「後ろ髪引かれる思い」とは、このことか? 全曲の中で1箇所だけ打たれる銅羅の音は、ゲルギエフ自身の指揮も含め過去に聴いたどの演奏よりも鮮明かつ厳かに轟き、以降の音楽は完全に彼岸(死)の世界に漂った。最弱音で曲が終わっても非常に長い間ゲルギエフは手を下ろさず、サントリーホールは異様な沈黙に支配された。まさに「黙祷」に匹敵する長さ。ゲルギエフの脳裏には、12月1日にサンクトペテルブルクの自宅で亡くなったレニングラード音楽院の先輩で、同じミュンヘンでバイエルン放送交響楽団を首席指揮者として率いてきたマリス・ヤンソンスの姿が映っていたのではないかと思われる。


1998年に亡くなった私の母は戦時中、通信社のタイピストとして働き、日本の敗戦と玉音放送の存在を事前に知っていた。「戦争が終わった当日、放送局のどこかでチャイコフスキーの《悲愴交響曲》をかけてほしい」と、NHK勤務の友人に途方もないお願いをして1945年8月15日の夜、本当に内幸町の暗い一室で《悲愴》のSP盤に耳を傾けたという。考えてみれば、日本の国体護持より音楽の方が大事だったわけで、すごい人を母親に持ったものだと思う。小さな一家の小さな歴史の中で「特別な意味を持つ1曲」を、今回ほど凄絶な演奏で聴いている間、自分の魂が本当に深いところで震えていたような気がしてならなかった。



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