長く旧東ベルリンに所在したベルリン放送交響楽団(RSO)は第2次世界大戦以前の1923年創立、フランクフルト・アム・マインのhr交響楽団(1929年創立)などとともに、ドイツの放送オーケストラでは古参格に属する。4年前来日時の首席指揮者マレク・ヤノフスキは2016年に退き、後任のウラディーミル・ユロフスキー(2017年就任)との組み合わせでは今回が初めての日本ツアーだ。ユロフスキーはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と来日した時に聴いた覚えがあるものの、ピアノの辻井伸行に光を当てたツアー設定だったので、少なくとも私は、はっきりとしたイメージをつかみかねていた。ヨーロッパではロシア国立交響楽団芸術監督、ロシア・ナショナル管弦楽団首席客演指揮者、ロンドンのピリオド楽器アンサンブルであるエイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団首席アーティスト、グラインドボーン音楽祭監督などを歴任。2021年にはキリル・ペトレンコの後任としてバイエルン州立歌劇場音楽総監督へ就任することも内定するなど、引く手あまたの活躍ぶりで、かなりの実力者には違いない。今回、ベルリンRSOのアンサンブルにヤノフスキ時代より一段の磨きがかかり、すべての音が「透徹美」といえるほどにくっきりと浮かび上がり、パッションにも事欠かない演奏に接し、初めてユロフスキーの真価に触れた思いがした。
2019年3月25日、新宿文化センター大ホールの公演には前半に諏訪内晶子を独奏に迎えたブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」、後半にマーラーの「交響曲第1番」(第2楽章として「花の章」を演奏)と、ニ長調の主調を共有するドイツ・ロマン派の名作2曲を並べた。ユロフスキーは1972年モスクワ生まれだが、18歳でドイツに移住、ドイツ=オーストリア音楽をレパートリーの柱としてきた。RSOでは楽員の世代交代が進み、対向配置で第1ヴァイオリン10型の引き締まった音像のブラームスの再現は、ヤノフスキ時代とはかなり趣を異にするものだ。
諏訪内によれば「とにかくリハーサルを入念に繰り返すマエストロ」ということで両者の息はぴったり。ユロフスキーは1音1音を全くないがしろにせず、時に驚くほど新鮮な表情を管弦楽から引き出し、ともすれば内側へ踏み込む以前に均整のとれた美音で音楽を完結させてしまう諏訪内を焚きつけ、渋く深いブラームスの世界に引き込んだ。持っている器の大きさは破格の名手だけに、様式美に内面性が加われば鬼に金棒、諏訪内は出色のソロを披露した。今までに聴いた彼女の演奏の中でも、一二を争う名演だったと思う。
後半は編成も拡大し、ユロフスキーとRSOの過去2シーズンの共同作業の成果を如実に物語る場面となった。先ず、音に芯が通った本物のピアニッシモが持続する。クライマックスの爆発までには、無数の音量レベルが用意され、繰り返しも丁寧に実行、マーラーが「隠し味」として書き込んだ些細な音の遊びのような部分まで、すべてを克明に再現していく。生成変転する和声の色彩感は、昔ながらのドイツ風の響きを巧みに漂わせている。ホールのさっぱりした音響も手伝ってか、フレーズの隈取り、エッジは鋭く明快だ。「花の章」とスケルツォをアタッカ(切れ目なし)でつなぎ、第4楽章(通常版の第3楽章)の前で入念にチューニングをやり直し。主題を奏でるコントラバスは独奏ではなく総奏、フィナーレのコーダ(終結部)のホルンは慣例に従って起立……と、随所でユロフスキーの現場判断の確かさを感じる。最後の畳み掛けは猛烈で、圧倒された。
振り返れば、ブラームスを標準?以上の古典志向で薄味に仕上げ、マーラーを熱く歌わせるとの対比を通じ、2人の作曲家が同じ時代の空気を吸っていた事実まで、きちんと立証したかったのではないだろうか。HIP(歴史的情報に基づく演奏)を前提に、「ロマン派」音楽の一語で片付けられがちな分厚い響きを洗い直し、近代音楽の先駆けをなす鋭い音感覚、崩壊寸前の和声感などを白日の下にさらけ出す問題意識、方法論は、先日のダニエル・ハーディング指揮マーラー・チェンバー・オーケストラのブルックナー再現とも一脈通じるものだった。
アンコールはワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕への前奏曲。分厚く温かいのに透明度を失わない弦に管が優しく寄り添い、祈りの音楽のように聴こえた。
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