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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

メゾソプラノ末広貴美子、初リサイタルで黒川紀章作詞&森ミドリ作曲に挑む!


森ミドリさん(左から3人目)を囲んで

東京二期会会員のメゾソプラノ歌手、末広貴美子は私たちにとって単に優れたオペラの脇役だけでなく、舞台裏のスタッフワークにも手腕を発揮、バランスのとれた人柄で魅了してきた友人でもある。2020年4月8日に日暮里サニーホールで予定していた「初めてのソロ・リサイタル」はコロナ禍で1年延期、2021年4月7日の豊洲シビックセンターホールに場所を移し、ようやく実現した。メインは後半に置かれた森ミドリ作曲の12曲からなる連作歌曲集「アドニスから手紙が来た」。今は亡き建築家の黒川紀章が、自ら設計した国立新美術館の「黒川紀章作品展」で「皆さんに差し上げたいので、この詩に曲をつけ、CD1,000枚に仕上げてほしい」と森に頼み、2週間で作曲させたものだという。余命を見定めた建築家の言葉は平明な日本語ながら、意味を汲み取るには難解なところも多く、森は「若者たちにどうしても伝えておきたいメッセージとして書かれたような気がしてならない」と、プログラムノートに記した。東京藝術大学在学中からビクトロン(日本ビクターの電子オルガン)奏者としてメディアで活躍し、音楽番組のみならずワイドショウや園芸番組のパーソナリティも務めた森は、私たちの世代には懐かしい存在だ。現在はチェレスタの演奏と作曲、合唱曲や歌曲の作曲に重きを置き、美しく深い作風で根強いファンを持つ。豊洲の休憩時間にも田崎尚美(ソプラノ)&松田祐輔(ピアノ)夫妻、佐藤久成(ヴァイオリン)、髙橋望(ピアノ)ら多くの音楽関係者に囲まれ(写真)、人脈の一端を垣間見せた。


末広は森の作品を「たまたま演奏会で聴き、瞬間で魅了された」といい、初ソロ・リサイタルでの「アドニス…」全曲演奏に意欲を燃やしてきた。「地動説」「コペルニクス的転回」「サンクトペテルブルク」「上昇気流」など、普通の歌曲にはなかなか現れない言葉のインパクトにもきちんと気を配り、楽曲の良さを力の限り伝える懸命の歌唱だった。自身も声楽を学んでいる出田晶子のピアノは出色で、豊洲備え付けのイタリア製グランドピアノFazioliが持つ色彩感を巧みに引き出し、末広の歌を多面的に支えていた。アンコールで演奏した安野光雅作詞の合唱組曲「津和野」の中の1曲も含め、森の声楽作品では鍵盤楽器のパートが重要な役割を担うが、出田のきらめく感性がそのまま乗ったような音は理想的といえた。


前半はイタリア語の歌曲とオペラアリア。出だしは初リサイタル、しかも1年も待たされての緊張の極みにあったのか声が硬く、ヴィブラート(というよりは震え?)も目立って心配だったが、次第に調子を上げていった。末広の音色は明るいメゾなので、ドスの効いたアルト寄りの悪女役は本来、似合わない。それでも「メゾソプラノ」を名乗り舞台に立つ以上「1度は絶対に歌ってみたい役」であろう「アドリアーナ・ルクヴルール」(チレア)のブイヨン公爵夫人のアリア「苦い喜び、甘い責め苦を」、「ドン・カルロ」(ヴェルディ)のエボリ公女のアリア「むごい運命」の2曲を前半の締めに置き、クライマックスとしたい気持ちは痛いほど良くわかった。意気込みが伝わる熱唱がステージに興奮をもたらしたのは確かだった。半面、ドラマティックに歌い上げれば上げるほど歌詞の単語が不鮮明になり、ただの絶叫一歩寸前にオーバーヒートしてしまう傾向は今後、改善すべき課題と思われた。


同じ晩には佐渡裕が指揮した東京文化会館「還暦」(開館60周年)記念コンサート、小林研一郎が昨年の「傘寿」(80歳)記念チャイコフスキー交響曲全曲シリーズを1年遅れで実現した演奏会(サントリーホール)が重なり、前者には日本人メゾソプラノの最高峰、藤村実穂子も出演していた。どちらもお招きいただいていたが、1年前時点で末広に「行く」と約束、さらに大好きな森ミドリ作品の貴重な全曲演奏の魅力もあり、迷わず豊洲へ。音楽の執筆を生業とする私たちは普段、できるだけ多くの本番に接し、少しでも豊かな内容を発信しようと微力ながらも努めている。だが、ぼんやりしていると自分独自の物差し(同業他者との差異化のポイント)を忘れ、知名度優先で全員が似たような催しを紹介、パイが少しも広がらない結果に終わりがちだ。オペラを客席から観る一方、舞台裏の仕事に細々と関わってきたおかげで末広と面識ができ、その初リサイタルで素晴らしい歌のピアニストを知り、長く憧れる森とも再会できた。大昔の新聞記者や刑事が先輩から口を酸っぱくして諭された行動原理の慣用句「現場百度」をふと思い出し、感性のアンテナを研ぎ直した一夜だった。

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