
2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災は、いまだ膨大な行方不明をはじめとする直接の犠牲者・被災者だけでなく、東京など少し離れた場所で激しい揺れを体験した私たちの心にも、深い傷跡を残したままだ。ミューザ川崎シンフォニーホールも大きな被害を被った。姉妹都市ザルツブルクの音楽祭などからの広範な支援で再建した後、2014年から毎年「被災地復興支援チャリティ・コンサート」を3月11日の昼に主催してきた。第8回の今年は山崎伸子が門下生を中心に集めた12人のチェロ奏者(チラシに載った香月麗は帰国できず築地杏里に変更)とホール・アドバイザーの松居直美(オルガン)が共演、同チーフ・アドバイザーの秋山和慶が「生まれて初めて」、チェロだけ12人の合奏を指揮した。
松居がバッハのオルガン曲を弾き終わると司会の山田美也子が現れて起立を促し、被災時刻に出演者と聴衆の全員で黙祷した。かつて仕事で携わった「ベルリン・フィル12チェロ」の十八番、クレンゲルの《讃歌》がこれほどまで深い祈りをたたえた作品だったとは!自然体で枯れた味わいに満ちた指揮と幅広い世代の腕利きの組み合わせの妙は、《シャコンヌ》で最高潮に達した。上野通明、藤原秀章、水野優也、森田啓佑の若手4人によるポッパーの《演奏会用ポロネーズ》の超絶技巧合戦は、全編祈りの中に覚醒の瞬間を現出させた。アンコールはカタルーニャ民謡《鳥の歌》を12人と松井、秋山の指揮で演奏。私の隣席だった福田紀彦市長にふと目をやると、感激の涙を流していた。全席指定1,000円均一のチケット収益、会場で集めた募金は全額、政府を通じて震災被災地に送られる。
夜は川崎から渋谷経由で代々木公園(富ヶ谷)のHakuju(白寿)ホールへ回り、実演に触れる機会を長く待ち望んできた私と同世代のドイツ在住のピアニスト、原田英代を聴いた。1990年代半ば、経済記者から音楽記者に転じて間もない頃に1度、東京文化会館小ホールでシューベルトのソナタを聴き、爆睡の挙句、全然理解できなかった苦い記憶がある。隣席にいた新聞記者の大先輩で「朝日新聞」出身、他社勤務の私にも色々と親切に教えてくださった中河原理さん(1931ー1998)に「良く分かりませんでした」と告白すると「音の美しさとか、聴くべきポイントはたくさんあったと思いますよ」と諭された。以後、ディスクのシューマンやローマン・トレーケル(バリトン)とのリート(歌曲)デュオの実演などを聴き重ね、原田への認識を新たにしてきた。どうした訳か、ソロ・リサイタルとは徹底的に日程が合わず、30年近くも聴き逃したままだったのだ。Hakujuで2017年から続けてきた全5回のリサイタル・シリーズの最終回「光」でようやく、リベンジの機会を授かった。
シューベルト遺作の長大な変ロ長調ソナタを聴きながら、なぜ30年前、原田の音楽とのチューニング(同調)に失敗したのかを考えた。先ずは私がまだ、今ほど熱狂的なシューベルトの信者ではなく、魂の深淵よりは表向きの長さや構成のとりとめなさに行く手を阻まれていたこと。もう1つは、原田のピアニズムにドイツ音楽への構造的視点と、モスクワ仕込みの強靭な打鍵のダイナミズムの二面性があり、独自のスタイルを理解するのに多少の時間を要することが原因だったのかと思う。今回はとりわけ第2楽章アンダンテの深いブレス、アンコールの即興曲に込めた平和への深い祈りに感心&感動し、やっと波長が合った。
後半は「ロシア・ピアニズムの継承者」を自認する原田の別のスペシャリティ、ともに19世紀末から20世紀初頭にかけてのピアノのヴィルトゥオーゾ(名手)で、盟友でもあったラフマニノフ、スクリャービンを並べた。スタインウェイを鳴らし切るフォルテが決まるのはもちろん、弱音のニュアンスの豊かさに長年の傾倒をうかがわせ、間然とするところのない出来栄えだった。「ウクライナにも夫の親族がいる」といい、アンコール1曲目にはチャイコフスキー《秋の歌》(《四季》の10月)を弾いた。ロシアの現状は現状として、音楽の文化遺産にもちろん罪はない。ヨーロッパ、さらには世界の平和が揺らぐなか、原田がロシアのピアノ曲にこめた思いの数々がひしひしと伝わり、感銘深い〝再会〟を果たせた。
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