• 池田卓夫 Takuo Ikeda

ベートーヴェン管弦楽の起点と終点を半日で聴く〜小菅優&東響と内藤&TNCO


執筆はびわ湖ホールへ向かう新幹線の中で

2021年3月6日の首都圏。ベートーヴェンが最初に管弦楽のために作曲した「ピアノ協奏曲第0番変ホ長調WoO4」(1784)、最終モデルの「交響曲第9番ニ短調Op.125《合唱付》」(1824)と40年の隔たりがある2作、さらには英国のベートーヴェン研究家のバリー・クーパーが断片を集めて編んだ「交響曲第10番変ホ長調」?の第1楽章までを5時間あまりの間に、2つの演奏会で聴くことができた。


1)「モーツァルト・マチネ第44回」(ミューザ川崎シンフォニーホール)

ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第0番WoO4」

モーツァルト「ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488」

小菅優(ピアノ&指揮)、東京交響楽団(コンサートマスター=水谷晃)


午前11時開演で休憩&アンコールなし、1時間のコンサート。奇しくも水谷35歳の誕生日当日だった。最近の小菅はソリストだけでなく、室内楽の名手としての評価も急速に高めている。今回の〝弾き振り〟でも、蓋を取り払ったピアノを中央に置き客席に背を向けた指揮者位置に座り、両手の簡単な動き以上に室内楽的発想のアイコンタクト、音のキャッチボールを個々の楽員との間で繰り広げ、自発性に富んだアンサンブルを整えていく。とりわけ、上から下に打ち込むのではなく、下から上に弾ませるリズムの処理が見事で、実に繊細かつ楽しい音楽の時間を現出させた。作曲を完成した時点で13歳のベートーヴェンが、紛れもなくモーツァルトのエピゴーネン(模倣者)的「神童」として世に送り出された状況は、モーツアルトとの対比を得て、鮮明に浮かび上がる。小菅のピアノ、一段と洗練されて、ごく自然で無駄のないアプローチの中から多彩なニュアンスを引き出し、描き分けていた。水谷も終演後、「もっともっと、優さんの弾き振りで演奏したい」と共同作業の喜びを語った。


2)東京ニューシティ管弦楽団第137回定期演奏会(東京芸術劇場コンサートホール)

ベートーヴェン「交響曲第10番変ホ長調(バリー・クーパー版)」第1楽章、「交響曲第9番ニ短調Op.125《合唱付》」

内藤彰(指揮)、嘉目真木子(ソプラノ)、山下牧子(メゾソプラノ)、工藤和真(テノール)、星野淳(バリトン)、東京合唱協会、執行恒宏(コンサートマスター)


「エグゼクティブ・コンダクター」のポストを持つ内藤は、かねてブルックナーの新稿初演やプッチーニ「蝶々夫人」に日本伝統の鐘を取り込むアイデアなどを通じ、既存作品の見直しに取り組んできた。今回も「第九」のバリトン独唱開始に「世界中で忘れられていた、ベートーフェンのたっての訴え!」を見出し、「第九の真意」という副題を演奏会に与えた。晩年になるに従い、ベートーヴェンの思い描いていたヨーロッパ革命の理想が変容し、貴族社会への逆行現象もみられるなか、「憎き世の中への怒りと絶望、自由を回復する意思を汚い音の絶叫に託した」というのが、内藤による「独自の分析」だ。


前半の「交響曲第10番」第1楽章、クーパーの試みは素材となった複数のスケッチの書かれた時期が必ずしも「第九」の後ばかりではなく、到底、最終モデル(第九)を超える存在でもない。最近の充実が目覚ましいニューシティ管の優れたアンサンブルで、「珍しいものを聴かせて頂いた」程度の聴後感にとどまった。


やたら先へ先へと振り、ブレス(息継ぎ)の感覚が不足するためにアーティキュレーション、フレージングなどの分節法・強弱法が曖昧となり、全音均等に響きがちが内藤の指揮の傾向が、「《第九》ではどうなるのかしら?」と危惧したが、残念ながら予想は当たった。第1楽章の冒頭からセカセカした足取りで、ピリオド(作曲当時の)奏法への接近を感じないわけではないが、それと表裏一体のはずのアーティキュレーションの感覚に乏しいため、音楽が円弧を描くようには、膨らんでいかない。それでも古典ティンパニを用いた神戸光徳をはじめとする楽員ソロの好演を得てなかなか順調に進行するなか、第3楽章を一転、情感たっぷりに奏でたことが第4楽章の〝怒り〟のエッジを和らげてしまったのは、ある種の設計ミス、あるいは本番ハプニングだったのかもしれない。


最大の注目箇所、第4楽章のバリトン独唱は確かに「アジ演説」のように口汚く?開始されたが、もともとメロウな音色の星野のバリトンが与える印象はやはり優男(やさおとこ)のそれであり、肝心のドイツ語発音。とりわけ破裂音の処理も曖昧だ。多くのピリオド系「第九」の独唱者が過去に与えてきた同様のインパクトを凌駕するには至らず、平均値の範囲内にとどまった。合唱は音楽界挙げての飛沫測定試験の結果、「現時点での大ホール演奏の《第九》での最大人数」と推奨された60人を立たせたが、全員がマスク着用のため、ただでさえ大編成では不鮮明になりがちなドイツ語の口跡が曖昧模糊と化し、テキスト(歌詞)再考を促す指揮者の意図とは一致しないのが惜しまれた。ディスタンスをさらにとり、40人以内のマスク無し歌唱にでもしない限り、歌詞のニュアンスまでは伝わらないだろう。


それでも「第九」の強さは、演奏の成否を超えて存在する。13歳から53歳(いずれも初演時点の満年齢)までの40年間をかけて管弦楽の世界を飛躍的に発展させ、未来への希望も託したベートーヴェンの軌跡を200年後の日本で、短時間に追体験できたのは幸いだった。

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